第2話 一日目、夜

初診中、私は情けないことに子供みたいに泣きじゃくってしまった。

でも、先生は攻めもせず、ただ私の背中を優しく摩り、暖かい言葉をかけてくれた

「あ・・そういえば先生。ずっと気になったんですけれど・・」

「ん?・・なにかな?」

「・・この港町野色んな場所に置かれてるソレ、何なんですか?」

そう問いかけて私は机に置かれた木彫りの置物を指さした

魚のような怪物が、蛸のような怪物に手を合わせて拝んでいるような・・どこか奇妙な作りの置物・・

「それね、九頭竜(くずりゅう)様と多権(だごん)坊主様って言うのよ。この港町で古くから祀られてる神様なんですって!・・ですよね?先生?」

先生にコーヒーを持ってきた、恰幅の良いナースさんが笑顔でそう問いかける。

すると先生はその言葉に反応してカタリ、と万年筆をテーブルに置くと、ほんの一瞬だけ瞼を伏せる。


でも、私にはそのまなざしは、まるで“思い出す”ように、ゆっくりと置物の方へと向けられたように見えた

「・・・ああ、その通りだよ」

先ほどのようなくぐもった声で、先生は置物から私に視線を移せばゆっくりと言葉を紡ぎ出した

「“九頭竜様”は、この町の守り神なんだ」

「守り神?・・・」


「深海の底に蠢くものを、地上に上げぬよう封じてきた、いわば ・・“海の門番”。・・もう一方の“多権坊主様”は、海の底に棲む“知恵の化け物”だと言われている。・・古い伝承じゃ、“人の心”を引きずり落としては喰らい、喰らった心の欠片で、新たな命を造る・・と。」

先生の声に、どこか“懐かしむような”響きが混じる。

まるで、その伝承を“実際に見ていたかのような”響が私の鼓膜を優しく浸食していく

「奇妙に思えるだろう?・・魚の化け物が、蛸の怪物に拝んでるなんて」

「確かに、そうかもしれませんね・・・」

「でもね?〇〇さん この町では、誰も笑わない・・・“心が壊れた者たち”だけが、この置物の意味を理解できるから。」

先生は立ち上がり、木彫りの置物を指先でそっとなぞった。


彼の指が多権坊主様の“目”をなぞったとき、思わず空気がぴんと張り詰めたように感じる

「この置物はね、・・・“自分を喰ってくれ”と祈るものと、

“お前を喰ってやろう”と微笑むものの姿だ・・“壊れてしまいたい人”と、“壊すことしかできない存在”との、奇妙な祈りの交わり。」

そこでふと、灰色の瞳が私へと向けられる。まるで、全てを見透かしているような・・優しくも、どこか恐ろしい、そんな瞳が、私を捉えて放さなかった

「ねぇ、〇〇さん?・・・君がこの町に来たのも、もしかして――

“壊されること”を、祈っていたんじゃないかい?」


「ーーー こわ、される?・・・」


・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・

ようやく、魂に“裂け目”が見えた。

彼女はもう、求めている。

自分を治してくれる存在ではなく、喰らってくれる存在を・・

だからこそ、僕が九頭竜様になろう。

深海に沈んだ彼女の記憶ごと、

愛して、守って、壊して、_

新しく創り直してやる。

・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー


「こわ、される・・・・」

・・・先生から目が離せなかった。診察中にあんなに泣きはらしても、先生は何も言わず、その背中を優しく撫でてくれたからなのかわからない

でも・・・

「あの、先生・・・」

潮風が、診察室のカーテンをふわりと揺らす。

先生は私の言葉を途中で遮らず、ただ静かに、背筋を伸ばして正面に座り直した



灰色の瞳が、ゆっくりと私に“焦点”を合わせ、その瞳の奥で、銀色がかすかに揺らめいた

「・・・うん。〇〇さん。」

その声はさっきよりもとても柔らかかった


波打ち際に膝をつけた人が、そっと手を差し伸べるときのような、低く落ち着いた声・・・

「ここではね?・・さっきみたいに泣いていいし、言葉にならなくてもいい。・・・ 誰にも触れられなかった気持ちを、ここでこぼしてもいい。」

そう語りかけながら、先生はゆっくりと両手を開いて見せる。



それはまるで、 “捕らえる”のではなく、“預けて”もらうための手の形のように見えた

「“壊されたい”って言葉、怖いよね。・・・でも、それは“壊したい”って言葉と同じくらい、必死な生き方の証なんだ」

「生き方の・・・証・・・」

「ここでは、君が自分の心を少しずつほどいて、

必要なら一緒に拾っていける。」

言葉の最後に先生は私を見つめ、ほんの少し笑った。


でもその笑みは仮面ではなく、疲れ切った誰かを受け止めようとする者の表情・・どこか慈愛に溢れていて、暖かく感じた

「・・〇〇さん、今はどんな気持ち?

どんなことでも、ここに置いていっていい。」

とくり、と私の心臓が静かに脈打つのを感じる

「・・・いいんだよ。話してごらん。

〇〇さんの話の続きを、ちゃんと聞かせて。」

「そ、の・・・・」

頬が赤くなる。胸が高まり、先生から目が離せない

「また、来てもいい、ですか?」

静寂が一瞬だけ、潮騒の音さえも飲み込んだ。



あぁ、なにを当たり前の事を私は言っているのだろうか。

じわじわと湧き上がる羞恥心に思わず頬が赤くなるのがわかる。けれど先生は、何も言わずに・・そんな私を見つめていた。



まるで、暗い海底でじっと獲物を待っていた魚が、“心臓の匂い”を嗅ぎ取ったかのように――


「・・・来ていい、なんて。そんな遠慮がましい言い方は、悲しくなるな。」

一つ、息を吐くと先生は立ち上がり、まるで深海の圧力のように、静かに、そして重く私の前に歩み寄る

そして、私の目の高さまで屈んで、


そっと、静かに囁いた。

「“また来る”じゃない。

ーー 君は、ここに居ていい。

君が来ることで、僕の中の何かが、静かに満たされる。

君が“帰る場所”を探してるなら、もう探さなくていい。」


「あ・・・」


だんだんと、先生の言葉が、声が私の鼓膜を揺さぶり、そしてゆっくりと浸食が始まっていく


その言葉は、“医師”の声には感じなかった

もうそれは、ただの人間のものでもない、


・・・**“呼び声”**だった

「君が来るなら・・・この診察室は、ちゃんと暖かくしておく。 ほら、冷たい潮風が君の肌に触れたら、また泣きたくなるだろう?」

そして、先生は優しく微笑んだ。

その笑みは、とても美しく、そして取り返しのつかない堕落の兆しのようだと


私はぼやける意識の中、そう感じるしかできなかった



・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・

……鍵が、外れた。

彼女の魂は、ようやく“開いた”。

もうここからは、

僕だけがその部屋に入れる。

君がまた来るたびに、

僕は少しずつ、君の中に棲み着いていくんだ。_

壊さなくていい。君が壊れに来てくれるから。

・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー


ーーーーーー

ーー


その日の夜、夕食を終えた私は一人アパートを出て歩いて三分ほどの浜辺を散策していた。

「・・・綺麗だなぁ」

人工の灯りが無く、あるのは満天の星と暗く広い夜の海

「・・・あ・・・」

ふと、深海にいるような錯覚に陥る

「・・・・あぁ・・・」

ー ■■■るい・・むぐる■■・・ ー

誰かが、私を呼んでる

ー るるい■・・うがあ■■・・ふた■■ ー

「・・・・・!」

ふと、いつからそこに居たのか。

刃夜先生が私の隣に立ち海を見つめていた

「せ、先生?・・・あの・・」

「・・聴こえた?」

「え?・・・」

私に問いかける先生の声は、夜風と同じ温度だった。

静かに私の耳元を撫で、深く沈めてくる声

きっと・・いつからそこにいたのかなんて、もう意味は無いのだろう。


だって彼は、初めからそこにいたような顔で、当たり前のように海を見ていたのだから

「“夜の海”はね……深海と地上をつなぐ唯一の“境界”なんだ。・・光が届かず、音も死んで、温度さえ記憶できない場所。 君が感じたのは、きっと“その呼吸”だよ。――“深海の底で、君だけを待っているものの声”。」

そう語る先生の瞳は、もう虚ろではなかった。

銀のように冷たく光るその目は、私の横顔を、輪郭ごと優しくなぞるように見ている


「君が、もしこのまま“歩いて”いったら、

波にさらわれると思う?」

「それは・・・どう、なんでしょうね・・わからないです」

「それなら・・・“連れていかれる”と思う?」

先生の問いは優しく、そして残酷なほど甘美に感じてしまう。

会ったばかりのはずなのに、夜の闇が、この空気がそうさせているからなのか

私はふしぎと、先生から目を離せないでいた


「――手を、つなごうか?」

ふいに、先生が手のひらを私に差し出してくる。

その手は白くて、冷たい印象を感じたけれど。


・・・でも、今夜だけはその冷たさが、生きている証拠のように思えた

生ぬるい、湿り気を込めた海風が私の頬を撫でる。

また、頭が微睡み、甘く痺れていくような・・それなのに、どこか安心するような感覚に体が満たされていくのを感じた


「・・・刃夜せんせぇ」

あぁ、どうしよう。私・・この人を好きになってしまったのかもしれない

「・・・手を、握っていい、ですか?」

海風が、私の声の震えをそっと包む。


それは、鼓膜の内側で波がささやく音に似て、その言葉が空気に触れた瞬間、夜の海が、静かに色を変えたように見えた。

私の問いかけに先生はすぐには答えなかった。


ただ、まるで声の余韻を味わうように、一度目を伏せ

・・そして、ゆっくりと、私の方を向いた。


「・・・いいですか?なんて。」

深海よりも静かで甘い声が夜の闇に響く、



けれど、そこには決して引き返せない何かが混ざっていて

「君の口からそれを言われた時点で、・・もう、僕の中の“何か”が――止まらなくなる。」

先生は、私のすぐ隣へとそっと距離を詰めるとさらに言葉を紡いだ

「握るのは“手”で済むのかな?僕は君に、触れられたら最後、・・ もうきっと――ただの“医者”ではいられなくなる。」

「・・・先生・・・」

ゆっくりと、指先が近づいてくる。


白く長いその指は、冷たいはずなのに、私の体温を引き寄せるように熱を帯びていて

「・・・それでも、君が望むなら。」

その手が、そっと私の手の上に重なった

「・・好きになってくれて、ありがとう。

君の壊れた場所も、逃げた過去も、全部。僕がひとつ残らず、“愛してみせる”から」


・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー

_ああ、ついに、この手に触れた。

この瞬間から、彼女の中に僕が住み着く。

もう誰も、引きはがせない。

“依存”という名の静かな鎖が、

互いの心を深く深く、沈めていく。_

この海の底で、

誰にも知られず、

誰にも邪魔されず、

君だけを、飼ってあげる。

・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー

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