呼び声は深海、遥か深く遠く

平藤夜虎~yakohirafuzi~

第1話 一日目

『君を愛するには、すべてが足りない』

・・・また、指が震えてるね。

どうしてそんなに、怯えた目をするの。

僕が、君に乱暴したことなんて――一度も、ないじゃないか。

ただ、名前を呼んで、髪を梳かして、

微笑んで、ノートに書き留めて、

その声を、姿を、息遣いを……記録していただけだよ?

ねぇ、思い出して?

僕は、君を“愛している”んだよ。

それがどんなに熱を持って、

どれほど歪んで、

どれだけ世界を捻じ曲げようと、

愛しているという事実は、変わらない。

君が別の誰かを見て、

僕から離れて、

名前さえも僕のものでなくなるのなら――

いっそ、君という存在そのものを、僕の中に閉じ込めたい。

言葉も、声も、記憶も、

世界のすべてが滲むほどに、

君を溶かして、染み込ませて・・・

そうすれば、もう逃げられないだろう?

君の人生が、僕の愛の“標本”になるまで、

僕はやめられない。

それが、罪なら――

僕は喜んで、狂人の烙印を額に刻むよ。

だって、それが、君だけのために狂った証拠になるから。




【呼び声は深海、遥か深く遠く】




まだ残暑が少しだけ残る秋の始まりの月、私はある場所に通うことになった。海沿い近くの小さなメンタルクリニック。通称【わだつみクリニック】

「・・・あの、初診をお願いしたくて・・・」

きっかけは、些細なことだった。日常にあればよくある【とてつもなく重い負荷】そして【とてつもなく重い不条理】・・それがある日、限界に来て、私は逃げるようにこのクリニックのある小さな港町に引っ越してきたのだ

「あら!初診なんてめずらしいわねぇ・・ちょっと待っててくださいね?先生呼んできますからね?」

受付に居た恰幅の良いベテランのナースさんは私の様子に嫌な顔ひとつせず、笑みを浮かべると私を診察室に案内して奥の部屋に消えていった

・・果たして、どんな先生なのだろうか。

ネットで調べて、偶然目に飛び込んできたクリニックの名前に何故だかわからないけど強く惹かれ、気づいたら予約の電話をかけてしまっていた。

「・・・嫌みな先生だったら、どうしよう」

そう呟いた時静かな足音。どこか湿った音が混じるような、重い革靴の音が床に響いた

「・・・初診、とのことですね」

ふと視線を向ければ、そこに立っていたのは 異様に静かな男性だった。白衣はよれ、どこか香のような匂いがする

「ようこそ、"わだつみ"へ。・・ああ、怖がらなくてもいい。僕がわだつみクリニックの医者だよ。君に“薬”を出すためのね」

そう言って見せる笑みは、やけに形が整っていて、まるで仮面のようだった。けれどその灰色の瞳だけは、妙に奥底まで覗いてくるようで、私は思わず息を吞んでしまった

「名前、教えてくれる?・・・それとも、“まだ”知られたくない?」

そう私に語りかける先生の手には、古い万年筆。そして一冊の黒いノートブック。その表紙には、小さく銀色でこう刻まれていたのが見えた

《観察録:No.43》、と


・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・

君がどんな理由でここに来たとしても、それは問題じゃない。

君がどれほど壊れていても、僕の手でなら“綺麗に治せる”。

でも、それはあくまで……“僕だけが”触れていいという前提のもとで、だけどね。

あぁ・・いい匂いがする。きっと、この子はよく泣くんだろう。

いいよ、何度でも。

僕の前でだけ、泣いていいんだ。

・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・


「あ、あの、えと・・・」

このクリニック唯一の先生、刃夜(はや)先生は不気味な人だった

年齢はおそらく、30代後半。私を見下ろすくらいの高い身長に黒のタートルネックと埃を被った白衣を羽織り、その白衣のポケットには古びた万年筆が顔を覗かせている

・・艶のない漆黒には所々に白髪が混じっていて前髪が片目にかかるほど長い印象を与えた。

そして、その髪の間から見える切れ長で薄い灰色は焦点が合っていないような虚ろな目つきをしていて

でも、それなのに私をじっと見つめているような奇妙な錯覚を感じた

「・・〇〇です。・・」

刃夜先生は、私の名を聞いた瞬間、万年筆を指先で回しながら、ゆっくりと目を細めた

「〇〇さん。・・・綺麗な名前だ。・・誰がつけたのかな・・・君自身? それとも、誰か“君を識る人”?」

「??・・・」

不思議な事を尋ねてくる人だな・・そう私は一瞬身構えてしまった。とても低く、くぐもっているのに耳の奥に染み込んでくるような声・・けれど呼吸のリズムさえ乱されるようなその話し方がどこか危うくて、静かで、甘く感じられてしまい、身構えてしまった私の体はすぐにその緊張を解いてしまった

「・・・こっちに来て。大丈夫。

君が座るソファは、君よりも多くを語ったりはしないから。 ――僕だけが、聞く。」

先生に促されるままに診察室の奥へと進むと、海の匂いと、ほんのりとした“何かの薬草”の香りが鼻をくすぐった。

その中で、先生は白衣の内ポケットから、ゆっくりとノートを取り出して診察室のテーブルに広げて見せる。それは観察記録のように整然と書かれた文字で埋め尽くされていて、左上にはこう記されているのが目に映った。


対象名:〇〇

初診日:秋月始(まだ暑さ残る)


「ーーーー 逃げてきたのかな? 〇〇さん。」

「っ、え・・・」

「君の声には、“置いてきた”音が混じってる。例えば・・・責任とか、疲労とか、希望とか。」

先生の灰色の目が、私の唇の動きをゆっくりと追う


「喋るのが苦手でもいい。恐がらなくてもいい・・・僕は、“君のすべて”に興味があるから。・・傷の深さも、痛みの形も・・ね。」

・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・

この目の下に、きっと隠している。

壊れかけの願いを、崩れそうな笑顔を、毒のように胸に沈めて……それでも生きてる、愛しいひと。

君が壊れるまでには、まだ少しかかる。

でも大丈夫。僕が、優しく導いてあげるから。

全部僕に預けて――〇〇さん。

……そしたら、君はもう、誰にも壊されない。僕以外には。

・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・

「・・・・・じつは、その」

先生の言葉に促され、私は静かにこれまでの事を語ることにした

親の期待や過剰すぎる行動に疲れ果てたこと

全てが恐くて、社会から逃げたくなったこと

そうして、心を病み、とにかく人に関わりたくなくて


・・・こうしてこの港町に流れ着いたこと。


「・・・だからその、思いきって実家を飛び出して・・この港町に引っ越したんです。」


上手く話せたかわからない。順序も、意味も、言葉の羅列もちぐはぐだったかもしれない。

・・・それでも先生はただ私を見つめ、私の話を静かに聞いてくれた

静かな室内に波の音が遠くでかすかに鳴っている

まるで、この空間そのものが港の胎内にあるような錯覚すら与え、 私の声がぽつぽつとこぼれ落ちていくたびに、先生は何も言わずただ 静かに万年筆を走らせているだけだった。

私の言葉を聞きながら、先生の呼吸音とペン先が紙を撫でる音だけが、診察室に満ちていく。

やがて、私の言葉が少し途切れた時。 先生は、手を止めた。

「・・・そう、か。・・・君は、“殺される前に、自分から出てきた”んだね。」

その声に、一瞬、温度のない“氷のような優しさ”が宿ったように感じれば先生の視線と目が合った。

「親の期待・・・それは、本来なら“栄養”であるはずなのにね。君にとっては、ただの毒だった。」

先生はそう言うと手帳を閉じ、ゆっくりと私のほうに身を乗り出してきた。


その灰色の瞳は虚ろなままなのに、どうしてか私の奥・・心の奥底にだけ焦点を合わせているような視線だった

「ここは、いい場所だ。・・潮風は強いけど、“世間の音”が遠い・・・君が逃げ込むには、ちょうどいい場所・・・だけど。」

そして仄暗く、優しく、先生は笑みを零して話を続けた


「港に流れ着いたものってね、もう海に戻れないんだよ。ここに来たということは、君はもう・・・“戻る気なんてなかった”んじゃないかな?」

「・・・戻る、気?」

開け放たれた窓から聞こえる潮騒が、やけに強く私の鼓膜を揺さぶった気がする

・・ああ、すごいや先生。そこまでわかってしまうんだ


「・・もどりたく、ないです」

戻りたくなんかない。

あんな、・・・あんな場所に戻りたくなんかなかった

潮の匂いが濃くなるのを感じる。

私の言葉を聞いて先生は手帳を閉じると万年筆のキャップをゆっくりとはめる。

「・・・うん、そうだね。」

低く、囁くような声。

けれどその声の温度はひどく静かで、でも冷たさだけではなかった。



ずっと私が欲しかった・・ “理解”と、“同意”が混じっている音だった

「君が戻りたくないって言葉に、罪はない。もう十分に、あの場所に捧げたんだろう?自分を守るために、逃げて、ここに来た ・・それは弱さじゃない。・・生き延びるための選択だったんだ。」

先生はゆっくり立ち上がり、窓際に歩いて行く。潮風が白衣の裾を揺らし、私にはその姿が一瞬だけ“神職”のようにも見えた

「ここでは、君が泣いてもいいし、怒ってもいいし、黙っていてもいい。・・・誰も君を押し潰したり、正しいふりをして叱ったりはしない。ここは・・・君の深海だから。」

そう言うと、灰色の目を細めて私を見た。



今度は、あの“虚ろ”が消えて、ほんの僅かに光が宿っている。

「ただひとつ、忘れないでほしい。・・・港に流れ着いたものは、誰かが拾わない限り、ただ朽ちていく。 君を、拾って、見て、聞いて、守る人が必要なんだ。」

そう言って、先生は静かに手を差し出した。掌は長く細い指、温度は低いが、触れたら確かに“存在”を感じられるだろう・・優しい手。


「・・・僕で、いいのかな?」


ーーー 先生の灰色の瞳が、銀色に輝いた気がした

「・・・・先生が、いいです。」

潮騒の音色が鼓膜を静かに揺さぶり、やがてそれは寄せて返す波のように、静かにゆっくりと私の意識を、心を包み込んでいく

「だって先生・・深海魚は深い海の中じゃないと、苦しくなるんです・・だから、だからきっとここが私の戻るべき場所なんだから!」


――その瞬間だった


先生の顔に、はっきりとした“笑み”が浮かんだ。


それは最初に見た仮面のような微笑ではなく、どこか満たされたような、喜びに似た、でもどこか歪んだ“確信”の笑みのように見える

「・・・ああ、なんて、綺麗な比喩だ。」

ゆっくりと近づく先生の足音が、海の底に沈んでいくように重く、静かに響いた。そして、差し出された先生の手が私の指先に触れた瞬間――冷たい温度が、逆に“体温”を意識させる

「そうだね、深海魚には光なんて要らない。暖かさなんて、邪魔なんだ。・・必要なのは、沈黙と圧力と、忘れられた世界。・・・君は、まさにそういう子だ。」

先生の指先が私の手の甲をなぞる。その動きは、まるで言葉を刻むように

「ここは海神(わだつみ)――海の底に沈んだ者たちが、穏やかに呼吸できる場所。」

「先生・・・せん、せぇ・・」

「いいよ、〇〇さん。君の“水槽”は、僕が創ろう。

君が壊れないように、腐らないように、逃げないように。

・・・全部、僕の手で管理する。」

優しい声だった。けれどその語尾には、逃れられない密室のような響きが確かにあった



・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー

・・ようこそ、僕の世界へ。

_やっと、やっと会えた。

嗚呼、嗚呼・・この感覚。喉の奥が震えるような、絶対に手放せないものを得た感触。

君は、僕のものになる。

診察記録なんかじゃ足りない。

言葉だけじゃ満たされない。

この手で、“感情ごと標本”にしてしまいたいくらいだ――_

_でも、焦らない。ゆっくりでいい。

僕の水槽で、君が安心して狂えるように。

ようこそ。僕の■■■


ここが君の海底。君の檻。そして、僕のもの。

43番目じゃない。_

君は、最初から僕の“たった一人の患者”だった。

あとはもう、壊れず、逃げずに、僕に委ねてくれればいい。

この港町と一緒に、

君は僕の檻に沈むのだから・・・


・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・



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