時速ゼロセンチのシンデレラ
クソプライベート
『ランウェイ・ランナー』
風巻(かざまき)のろみ、17歳。彼女の人生は、絶え間ない演算の連続だった。
右足を一歩前に出す。そのためにはまず、左足の母指球に体重の68%を乗せ、腰を3ミリ浮かせ、骨盤を時計回りに0.8度回転させ、右肩を2度後ろに引き、視線は15メートル先の地面と水平に――。思考が体の動きに追いつかない。コンマ数秒の遅延が全身の連動性を破壊し、彼女の体はぎこちなく固まる。結果、のろみが一歩を踏み出すのに、健康な人間の五倍の時間を要した。
体育の授業、50メートル走。号砲が鳴ってから10秒後、ようやくスタートラインを越える彼女に、もはや嘲笑はなかった。あるのは、奇妙な生き物を見るような無関心だけだ。「時速ゼロセンチ」というあだ名は、憐憫すら乾ききった砂漠に咲いた、悪意のない事実の花だった。
彼女をこの終わりなき演算地獄に突き落としたのは、8年前の記憶。雪の降る夜だった。高熱に魘される幼い弟・陸を背負い、彼女は必死に病院を目指した。だが、足が動かない。焦れば焦るほど、体は思考の迷路に迷い込み、アスファルトに縫い付けられたように固まった。「姉ちゃん、まだ…?」という背中の掠れた声が、今も耳の中で木霊している。結局、通りかかった車に助けられたが、陸には重い後遺症が残った。
あの日から、風巻のろみは「速さ」の亡者となった。
それは、トレーニングと呼ぶにはあまりに常軌を逸していた。物理学、運動力学、解剖学の専門書を読み漁り、自らの肉体を実験台にした。
初めは、体の制御だった。茶道の作法でミリ単位の動きを体に刻み込み、書道の筆運びで力の流れを学んだ。次に、環境との同化。風の分子の配列を肌で感じ、その隙間を縫うように体を滑り込ませる。地面の分子構造を足裏で読み取り、反発係数を100%推進力に変換する。雨粒が地面に落ちる前に、その軌道を読んで三度跨ぐ。
狂人の沙汰だった。公園の隅で、微動だにせず風の音を聴き続ける彼女を、人々は気味悪がって避けた。そんな彼女に声をかけた人間が一人だけいた。
「君は、物理法則に喧嘩を売っているのかね?」
大学を追われた変人物理学者、天童宗一だった。彼は、のろみの動きが単なる根性論ではなく、既存の力学体系を超えた「新しい物理法則の実証」であると見抜いた唯一の人間だった。
「面白い!実に面白い!君は世界のバグだ!君の走りは、因果律への反逆だよ!」
天童という理論的支柱を得て、のろみの「走法」は完成の域へと近づいていった。彼女はもはや、筋肉の力で走っていなかった。世界と体の間に発生する、あらゆるエネルギーの歪みを推進力に変えていた。空気抵抗、地面との摩擦、光圧、重力、その全てが彼女を前へ、前へと押し出した。
そして、その噂は太平洋を越えた。
在日米軍横田基地。日本のメディアも招かれた航空ショーの目玉として、最新鋭ステルス戦闘機F-35ライトニングⅡの性能デモンストレーションが予定されていた。そのイベントの責任者であるジェームズ大佐は、ある日本の都市伝説に興味を示した。「音もなく現れ、消える少女」の話だ。
「面白い。ショーの余興に、そのゴーストを呼んでみようじゃないか」
こうして、人類史上最も馬鹿げた、前代未聞の異種速度競争がセッティングされた。
全長3000メートルの滑走路。片側には、陽光を鈍く反射させる灰色の獣、F-35。コックピットには、幾多の修羅場を潜り抜けたエースパイロット、ジャック・"キャノンボール"・ライリー少佐が座る。そしてもう片側には、制服姿のまま、表情一つ変えずに佇む、華奢な少女、風巻のろみ。
観客席からは失笑が漏れた。「茶番だ」「売名行為か」。ライリーも鼻で笑う。彼の機体は、アフターバーナーを焚けば僅か数秒で音速を超える。少女が瞬きをする間に、豆粒ほどの大きさに変わっているだろう。
『TEN, NINE, EIGHT...』
カウントダウンが響く。のろみは静かに目を閉じた。弟の顔が浮かぶ。「姉ちゃん、頑張って」。車椅子の上から向けられた、純粋な笑顔。ごめんね、陸。姉ちゃんが、あの日の時間を追い越しに行くから。
『...THREE, TWO, ONE, GO!!』
閃光と轟音。F-35のプラット・アンド・ホイットニー F135エンジンが咆哮を上げ、滑走路が震えた。灼熱の排気が空気を歪ませ、鋼鉄の巨体が滑り出す。
その瞬間、風巻のろみは、消えていた。
「なっ…!?」
ライリーが目を見開く。スタートラインにいたはずの少女の姿がない。観客も、実況席も、誰もが言葉を失った。カメラが慌てて滑走路を追うと、信じられない光景が映し出された。
F-35の、遥か前方。滑走路の真ん中を、一人の少女が「立って」いた。違う、立っているのではない。常人には認識できない速度で「走って」いるのだ。ブレザーの裾も、髪も、一切靡いていない。まるで、彼女の周りだけ時間が停止しているかのようだ。
「バカな…ソニックブームはどこだ!衝撃波は!?」天童がフェンスに掴みかかりながら叫んだ。のろみは、空気そのものを味方につけていた。彼女の体を避けて流れる気流は完璧な層流を形成し、一切の抵抗を生み出していなかったのだ。
「面白いジョークだ!」ライリーはコンソールを叩いた。スロットルを一気に最大へ。アフターバーナーの青白い炎が迸り、凄まじいGが彼をシートに押し付ける。時速は300キロ、500キロ、800キロと、爆発的に加速していく。
機首の先に、まだ少女の背中が見える。あり得ない。ライリーは幻覚を疑った。離陸速度到達。彼は操縦桿を引いた。F-35が機首を上げ、轟音と共に浮き上がる。
「これで終わりだ、ゴーストガール!」
高度を上げながら、音速の壁(マッハ1)を目指す。眼下の少女が、米粒のように小さく…ならない。
おかしい。距離が縮まらない。それどころか、離されている?
地上では、誰もが息を呑んでいた。浮上していく戦闘機と、地上を走る少女。その距離が、僅かずつ、しかし確実に開いていく。のろみは、物理法則を置き去りにしていた。地面からの反発力は、彼女の足裏を通して無限のエネルギーに変換され、はや速度という概念すら超越しようとしていた。
ゴールラインまであと僅か。ライリーの目の前の計器がマッハ1、時速約1225キロに到達したことを示す。その瞬間、彼の機体を凄まじい衝撃が襲った。ソニックブームだ。
だが、それは自らが放ったものではなかった。地上から、遥か後方から、自分を追い越していった「何か」が発生させたものだった。
ライリーは、確かに見た。
戦闘機の窓のすぐ横を、一人の少女が駆け抜けていくのを。彼女はゆっくりとこちらを振り返り、その目は少しだけ、悲しそうに微笑んでいた。
ゴールテープが、音もなく切れた。
世界中が沈黙し、次の瞬間、爆発のような歓声に包まれた。だが、風巻のろみは、その中心にはいなかった。彼女は誰にも気づかれず、そっと会場を抜け出し、弟が待つ医務室へと向かっていた。
「姉ちゃん」
「うん」
「速かったね」
「うん」
のろみは車椅子に寄り添い、弟の手をそっと握った。彼女が欲しかったのは、世界最速の称号ではなかった。戦闘機に勝つことでもなかった。ただ、この温かい手を握り、隣を歩けるだけの「速さ」が欲しかった。
世界中が「カザマキ理論」の解明に躍起になる中、風巻のろみは、弟の車椅子をゆっくりと押しながら、夕焼けの道を帰っていた。その歩みは、世界で一番速くなった今も、やはり誰よりも、ゆっくりとしていた。
時速ゼロセンチのシンデレラ クソプライベート @1232INMN
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