猫戦士

@HaruhoNeko

第1話 猫戦士

夕暮れの山道を、ひとりの娘が歩いていた。村の食料雑貨屋の娘である。配達を終え、空が茜に染まるころ、ようやく帰路についた。


「…あのおばさん、話し込むから遅くなっちゃった」 小さくつぶやき、肩にかけた籠を持ち直す。


そのとき、娘は気配を感じ、ぎくり、と足が止まる。熊の気配。距離はまだ遠い。だが確かに、山道の近くを移動している。


娘は深呼吸し、自分に言い聞かせた。 (大丈夫……焦らず、このまま歩き去れば何ともない)


足を進める。やがて気配は遠ざかり、胸をなで下ろした。だが、振り返った瞬間、娘は息を呑む。


別の人影が、熊の方へと近づいていたのだ。警告したい。しかし叫べば熊を刺激してしまう。声を出すこともできず、娘はその場であたふたと立ち尽くした。


そのとき。ふわり、と視界の端に奇妙なものが浮かんだ。


「…な、なにこれ?」 娘は困惑する。夕闇に漂うそれは、半透明の塊のようで、しかし顔があり、こちらを見ていた。


次の瞬間、娘はさらに驚愕する。それが、言葉を発したのだ。


「心配いらん。奴は猫戦士だ」


「……え?」 意味がわからない。目の前の浮遊物が何なのかも、その口にした言葉の意味も。とりあえず聞き返すしかなかった。


「ね、猫戦士って……何?」


浮遊体は、どこか誇らしげに答えた。 「猫を揉めば揉むほど強くなる伝説の戦士。ただし、猫に嫌がられずにな。気絶させたり、死んだ猫では力にならん」


「は、はぁ……」 娘は困惑のあまり、間の抜けた声を漏らすしかなかった。


山道の奥、夕闇の気配の中で、熊とひとりの男が対峙した。  その男、猫戦士は、静かに熊を見据え、低くつぶやいた。


「随分気が立っているな……どうしたんだ、こいつ」


熊は答える代わりに、喉の奥から轟くような雄叫びを放った。  遠くで見ていた娘は、思わず悲鳴を上げる。


次の瞬間、熊の巨体が揺れ、右手が振り下ろされた。  強烈な平手打ち。大木すらへし折る一撃。


だが、猫戦士は左手を軽く上げただけで、その衝撃を受け止めた。  彼は落ち着いた声で言う。


「こんな所をうろついていたら、人間に殺されてしまうぞ…」


熊はなおも怒りを収めず、再び雄叫びをあげる。  今度は左手を振りかざし、さらに強烈な一撃を繰り出した。


しかし、それもまた、猫戦士は右手で軽く受け止めた。  そして、不意にその大きな掌を掴み、熊の肉球を揉んだ。


熊を揉んでも、彼の力にはならない。  それでも猫戦士は、確かにその肉球を揉んでいた。


遠くからその光景を見ていた娘は、息を呑み、震える声を漏らす。


「つ、強い……これまで一体、どれだけの猫を揉んできたというの……?」


娘は、自分で言って何を言ってるんだと思った。 「…というか、何よ、猫戦士って……」  口から漏れた言葉は困惑そのものだった。


熊はというと、肉球を揉まれることにすっかり嫌気が差したのか、低く唸り声を残して森の奥へと引き返していった。


猫戦士はその背を見送りながら、ふと気配に気づき、言った。 「…珍しいな。お前がこんな人通りのあるところに出てくるなんて」


視線の先、森へ少し入った木の枝に、それはいた。  身長およそ八十センチ。

二・五頭身ほどの小柄な体。白い短い毛に覆われ、ペンギンのように丸みを帯びた姿。顔は猫に似ているが、猫耳はなく、頭は丸い。


森の守護精霊、プリプリ族。


枝の上から、鋭い眼差しを向けてきた。 「…貴様か。だが、違うな」


猫戦士は、問い返す。 「何がだ」


プリプリ族は告げた。 「異質な気配のせいで、動物たちの気が立っている。だが…貴様が原因ではないようだ」


夕闇の森に、一瞬の沈黙。


「…そうか。注意しておこう」  猫戦士は静かに言い、枝の上のプリプリ族に一瞥を送った。


それに応えるように、プリプリ族は無言で身を翻し、森の奥へと跳ねるように消えていった。熊もまた、揉まれた肉球を気にするように、同じく森へと帰っていく。


猫戦士は、山道を進んだ。  そして、娘と浮遊体のいる場所へとたどり着く。


ふわふわと漂う半透明の存在を見て、猫戦士は言った。 「…お前まで来ているとはな。何かあるのか」


浮遊体は、気の抜けた声で答えた。 「俺は気ままに漂ってるだけさ」


娘は、ふたりのやり取りを聞きながら、さらに困惑を深めていた。 「えっと…お二人?は、知り合いなんですか?」


その言葉に、猫戦士は娘を見つめ、少しだけ驚いたように言った。 「君は…ポコポコ生物が見えるのか」


「ポコポコ……?」  娘は目の前の浮遊体を指さし、首をかしげる。 「え、と……この、わらび餅みたいな……?これ、生物なんですか?」


ポコポコ生物は、ぷるんと揺れながら、どこか誇らしげに微笑んだ。


「生物かどうかは……俺も知らない」  猫戦士は、ふわふわと漂う半透明の存在を見つめながら言った。 「だが、何故か“ポコポコ生物”と呼称されている」


「は、はぁ……」  娘は返事にならない声を漏らした。意味がわからない。わらび餅のようなそれが言葉を話し、猫戦士と会話している。しかも浮遊している。そもそも、猫戦士という存在も意味が分からない。


猫戦士は娘に視線を向けた。 「君、村の雑貨屋の人だな。俺は君の家へ買い物に行くところだった」


「えっ……」  娘は目を見開いた。思えば、この男、猫戦士の顔には、どこか見覚えがある。記憶を探るようにして、ぽつりと口にした。 「あなた……もしかして、たまにヤギのチーズをまとめ買いしていく人……?」


「ああ。今日も買いに来た」  猫戦士は、当然のように答えた。


娘は、ただ呆然とするしかなかった。


三者は、夕暮れの山道を並んで歩いた。猫戦士、娘、そしてふわふわと漂うポコポコ生物。


娘は、隣を漂う半透明の存在に目を向けて言った。 「……あなたも来るの?」


ポコポコ生物は、ぷるんと揺れながら答えた。 「言ったろ。俺は気ままに漂うだけさ」


「ま、別にいいけど……」  娘はそう言って、前を向いた。


やがて村の入り口が見えてくる。だが、何かがおかしい。 空気が重い。風が止まり、音が消えたような感覚。


「…何? なんか変な感じ……」 娘は足を止め、眉をひそめた。


広場に差し掛かった瞬間、彼女は息を呑んだ。 数人の村人が、地面に倒れていた。


「えっ……」


猫戦士は、静かにその光景を見渡し、低くつぶやいた。 「……そうか。“アレ”が来ていたのか」


娘は戦慄した。 「“あれ”? あれって……」


倒れているのは、自警団の人たちだった。 村を守るために日々巡回していた、屈強な男たち。その彼らが、何の抵抗もできなかったかのように、無防備に倒れている。


そして…。


広場の奥から、ひとつの影が現れた。 ゆっくりと歩み寄りながら、猫戦士に向かって語りかける。


「……ほう。お前か、猫戦士」


その声は、冷たく、深く、何かを嘲るような響きを持っていた。


娘は震える声で問いかけた。 「……知り合い、なんですか……?」


猫戦士は首を横に振り、静かに答える。 「いや。ガワの人間とは知り合いじゃない。取り憑かれている、“憎しみの化身”にな」


その言葉に、娘の背筋を冷たいものが走った。 「ガワ?……憎しみの化身……?」 またしても戦慄が彼女を包む。


その憎しみの化身と呼ばれた者は言い放った。 「まさか……俺の邪魔をしないよな。人間の味方でもないくせに」


その姿は、倒れた自警団の傍らに立ち、ゆらめく闇のような気配をまとっていた。その奥に潜むものは明らかに異質だった。


猫戦士は一歩前に出て、静かに言い放つ。 「……今回は邪魔する。それが、今回の縁だ」


広場に、張り詰めた沈黙が落ちた。 夕闇の村で、猫戦士と“憎しみの化身”が向かい合う。


「そうかい!」 憎しみの化身が叫ぶと同時に、空気が裂けた。


破壊の閃光が、猫戦士めがけて放たれる。 その光は、怒りと憎悪の凝縮体。広場の空気が震え、地面が軋む。


だが猫戦士は、傍らの娘を庇いながら、身を翻してその一撃を受け止めた。 彼の掌が光を包み込み、衝撃を周囲に広げぬよう、霊的な膜を張る。


瓦礫が舞う。だが、村の建物は崩れず、娘も傷つかない。


憎しみの化身は、顔を歪めて再び閃光を放つ。 二度、三度、四度――。


だが猫戦士は、すべてを受け止めた。 そのたびに、娘を守り、広場の破壊を防ぎ、村人たちの命を守る。


彼の動きは、力強く、そして静かだった。 まるで、猫を揉むときのように優しく、正確に、無駄なく。


憎しみの化身は、ついに声を荒げた。 「こいつ……以前より遥かに力を増している……!」


その目に、怒りが浮かぶ。 「あれから一体、どれだけの猫を揉んできたというのだ……!!! この身体では勝てん!」


広場に、再び沈黙が落ちた。 猫戦士は、娘の前に立ち、静かに構えていた。


「ならば、この身体は捨てる」 憎しみの化身が、嗤うように言った。 「だが、この村には吹き飛んでもらう」


その瞬間、空気が震えた。 乗り移られた人間の肉体が、異様な光を帯び始める。地面が軋み、空が歪む。破壊の予兆が、広場全体を覆った。


猫戦士は、動かなかった。 ただ、娘の前に立ち、目を閉じて、葛藤していた。


(できれば殺したくないが……)


その思考は、刹那。 だが、憎しみの化身が力を溜める速度は、容赦なかった。


猫戦士は、静かに息を吐き、決断した。 次の瞬間、彼は乗り移られた肉体に向かって踏み込み、一点を突いた。


肉体は、崩れるように倒れた。 憎しみの化身は、叫びもせず、ただ霧のように消えた。


広場に、静寂が戻る。


猫戦士は、低くつぶやいた。 「俺は、また、何も救えなかった。俺に、もっと圧倒的な力があれば……」


娘は、言葉を失っていた。 状況の半分も理解できない。憎しみの化身とは何なのか、乗り移られた人間は誰だったのか。


だが、彼女の目には、どう見ても猫戦士には“圧倒的な力”があった。 それを「力がなかった」と言う彼の言葉が、理解できなかった。


ふわりと漂うポコポコ生物が、静かに言った。 「だが、お前の判断が遅れていれば、村は大被害を被っていたぞ」


「かもな…」 猫戦士は、一言そう答えただけだった。


娘は、広場の静けさの中で、問いかけた。 「……憎しみの化身は、死んだんですか?」


ポコポコ生物は、ふわりと揺れながら答えた。 「憎しみの化身とは、つまりは人間の化身さ。人間が滅びない限り、奴も滅びない」


娘は絶句した。 「……人間の、化身……?」


広場には、三人の自警団員が倒れていた。 命を落としたのは彼らだけだった。“だけ”と言っていいのかは分からなかったが、 憎しみの化身の圧倒的な力を目の当たりにした娘は、“だけ”で済んだ、そう思ってしまった。


しばらく、娘は放心していた。 その沈黙を破ったのは、猫戦士の声だった。


「……チーズ、買えるか?」


「あ、え……ええ」 この状況に似つかわしくない素朴な質問に娘は現実に引き戻される。


猫戦士は、いつものようにヤギのチーズをまとめて買い、袋を肩にかけると、静かに帰路についた。


娘は、背を向ける彼に声をかけた。 「あ、あの……今日はありがとうございました」


猫戦士は振り返って言った。 「俺は、自分の利益を優先しただけだ。ここのチーズが買えなくなったら困る。じゃ、また」


そう言って、夕暮れの道へと消えていった。


娘は、まだ現実離れした今日の出来事を飲み込みきれずにいた。 熊、憎しみの化身、猫戦士…


ふと気づくと、ポコポコ生物がまだ隣に漂っていた。


「……え、あなたは帰らないの?」


ポコポコ生物は、ぷるんと揺れて答えた。


「俺は気ままに漂うだけさ」


「いや、帰れよ……」 娘は、思わずそう言ってしまった。  


だがその声には、少しだけ、安堵の色が混じっていた。

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