第29話 嫌な能力

訓練場の横にある監視所の窓辺で、弥生はコーヒーを手にぼんやりと訓練を眺めていた。訓練場にはぶつかる音、叫ぶ声が響き渡っていた。

「はぁ……今日も何もなくだなぁ……」

弥生は誰に聞かせるでもなく、独り言を漏らす。

「こんな感じで毎日終わってくれたら楽なのに……」

「心の声が漏れてますよ」

背後から山本の声が飛んできて、弥生は肩を跳ねさせた。

「す、すみません……」

「いえ、本当に田辺夫妻に何もなければよいですね」

山本の言葉には、どこか含みがあるように感じられた。弥生はその微妙なニュアンスに引っかかりながらも、深くは問いたださなかった。

複数の能力をもつ田辺夫妻のことだからいろいろあるんだろうと弥生は思った。能力の存在が世間に知られれば混乱を招くため、夫妻には外での能力使用が厳しく禁じられていた。


「たまには新藤さんも訓練で体を動かしてはどうですか?」

山本が軽く笑いながら言う。

「いや~私は……」

「女性にこういうことを言うのもなんですが、お腹周りが以前よりも……」

「頑張ってきます!」

弥生は顔を赤らめながら、山本のもとを走り去った。

山本はその背中を見送りながら、静かに呟いた。

「もう少し汗をかいて気分転換したほうが良いでしょうね……」


訓練場では、哲郎が足立指導官と真剣に打ち合っていた。

山本はその様子をじっと見つめる。

「本当に、あれが以前の貧弱な男だったのか……?」

かつては風に吹かれて倒れそうなほどだった哲郎が、今では指導官と互角に渡り合っている。

「身を守る意思……奥さんを守る意思か……。性格だけでなく、肉体までも変化したということか……」

山本の目には、まだ確証のない仮説が浮かんでいた。

一方、梨音は敦子の訓練を見守っていた。

敦子の能力は記憶の改ざんに加え、遠くを見るという新たな力も備わっていた。

国としてはスパイ活動にも応用できると考えていたが、敦子自身がその使用を望んでいなかった。

エヴォルドでは、進化者の意思に反して能力を使わせることを禁じている。

それは人権に関わる問題だった。


「やっほ~あつっち~、調子はどう~?」

梨音が両手にフラペチーノを持って現れる。

「ありがとう」

敦子が笑顔で受け取ると、教官の小林瑠々が眉をひそめた。

「ちょっと河合さん、訓練途中ですよ」

「え~いいじゃん」

梨音はもう片方のフラペチーノを小林に差し出す。

「もう~しょうがないですね~河合さんは」

小林は苦笑しながら受け取り、結局休憩を許す。

梨音の勝ちだった。

「毎日つまんなくない?」

「う~ん、能力の使い方の練習は慣れてきたけど、遠くを見るなんて何に使えるんだか……」

「え~便利じゃん。例えばさ~今、てつっちが何してるか見てみたら?」

「え、そ、それはちょっと……」

「なんで~?」

「もしトイレとか行ってたら……」

「乙女だね~あつっち♪」

梨音が笑う。

「まぁ~心配になった時に使えばいいんじゃね」

「そうだね」

敦子は少し照れながらも笑顔で答えた。

「さぁ休憩は終了して、訓練の続きをしますよ!」

小林がフラペチーノを飲み干して叫ぶ。

「はい!」

敦子が元気よく返事をし、手を振って訓練場へ戻っていく。

梨音はその後ろ姿を見つめながら、ふと胸が締め付けられるような感情に襲われた。

「あんなに誰かを好きになれるって、うらやましいな……」

私は……。

梨音の脳裏に、過去の記憶がよみがえった。

嘘がわかる――嫌な能力だと思った。


彼女がその能力を得たのは中学生の頃。

学校帰り、工事現場の横を通った時、強風でクレーンの荷が落下し、進化の世界へと引き込まれた。

青春の真っ只中で得た能力。

最初は「すごい」と思った。

だが、すぐにその力に振り回される日々が始まった。

親の嘘。

友達の嘘。

彼氏の嘘。

見えなくていいものまで見えてしまう。

一時期は人間不信になり、誰も信じられなくなった。

ギャルとして振る舞っていたのは、そんな自分を変えたい一心だったのかもしれない。

今ならそう思える。

敦子を「友達」と思えたのは、敦子が嘘なく「友達だよ」と言ってくれたからだ。

だからこそ、彼女の力になりたいと強く思う。

それと同時に、敦子と哲郎の関係を、どこかうらやましく感じてしまう自分がいる。

私もいつか――

誰かに、嘘なく「好き」と言える日が来るのだろうか。

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