第30話 長い一日

無機質な壁に囲まれた室内訓練場。弥生はトラックの外周を黙々と走っていた。息は荒く、額には汗が滲んでいる。

「はぁっ……はぁっ……」

山本にお腹周りのことを指摘されたのが、きっかけだった。

――まったく、山本さんもひどい。女性に対してそんなこと言うなんて!

私だって日頃から気にして……。

……なかったかも。

「もう~……」

弥生は自嘲気味に呟きながら、さらにペースを上げた。

山本は少し離れたベンチからその様子を見守っていた。

「たまにはしっかり汗をかいて、日頃のストレスを発散させた方がいい」

そう思っての助言だったが、少々言い方が雑だったかもしれない。


名古屋支部のメンバーは今、田辺哲郎と敦子という特異点に関与している。

エヴォルド本部でも彼らは極めて重要視されていた。

関わってしまった以上、「知りません」では済まされない。

今はまだ、どちらに転がるかわからないボール。

それをこちら側から動かさないよう、内外の体制を完全に整える必要がある。

山本の頭の中は、考えるべきことでいっぱいだった。


三十分のランニングを終え、弥生はストレッチに移る。

「……あ~、これ、やばいかも」

久しぶりの運動で、筋肉痛の予感が足を包む。

入念にマッサージをしながら、ふとお腹の横の肉をつまんでみる。

「はぁ~……」

大きなため息が漏れる。

――これ、一人で続けるの……無理~。

でも、今日は走ってよかった。

汗をかいたことで、心のもやが少し晴れた気がする。

そうだ、監視もあるし、敦子さんと一緒にやれるか聞いてみよう。


弥生の能力は「蜃気楼」。

幻影を見せるだけの、いわば手品のようなもの。

本部でも活用の場が見つからず、名古屋支部の人材発掘部門に配属された。

進化者の勧誘や発見が主な業務だったが、田辺夫妻の件では連続して失敗。

そのことで、弥生は自信を失いかけていた。


今回の監視業務は本部直轄。

山本の配慮で、気分転換も兼ねて同行することになった。

走り終えた弥生の表情は、少しだけ晴れやかになっていた。

山本はそれを見て、ほっと胸を撫で下ろす。


夕方、田辺夫妻の訓練が終わり、帰宅の時間となる。

弥生が先行して監視にあたる。

一定の距離を保ちながら、二人の様子を見守る。

――本当に、ふたりともラブラブだな。

弥生は心の中で呟く。

彼氏のいない自分にとって、夫婦として寄り添う二人はまぶしい存在だった。

その時だった。

フードを深く被った人物が、田辺夫妻に近づいていく。

弥生の心に警鐘が鳴る。

――敵?

直感が告げていた。

すぐさまスマホを取り出し、山本に連絡する。

「山本さん!敵が接触してきました!」

「すぐ行く!」

山本は駅近くの駐車場で待機していた。

「ちっ、思ったより早く行動してきたな……」

エンジンをかけ、車を急発進させる。

スマホには弥生の位置が表示されている。

五分もかからず現場に到着。

目の前では、哲郎が何者かに襲われていた。

山本は車の扉を開け、全力で走る。

フードの男の背中めがけて、渾身のタックル。

「ぐはっ!」

男は地面に崩れ落ちた。

「間に合ってよかった。遅くなって申し訳ありません」

山本は息を切らしながら言う。

それは体力の限界ではなく、緊張と責任の重さからくるものだった。

元自衛官として鍛え上げられた肉体。

能力ではなく、純粋な身体能力による一撃は、まるで車に跳ねられたかのような威力だった。


山本は男を縛り、トランクに押し込む。

田辺夫妻は精神的に疲弊していた。

哲郎は怪我をしていたが、自身の能力で治癒を始めている。

「一度、安全な本部へ連れて行った方がいい」

山本はそう判断し、夫妻を車に乗せる。

弥生は蜃気楼の能力を使い、人だかりの幻影を作り出す。

現場の混乱を隠蔽するための処理に集中する。

幻影の中で、通行人たちは何事もなかったかのように通り過ぎていく。

車は静かに本部へ向かって走り出す。

夕焼けが街を赤く染める中、弥生は一人、幻影の中に立ち尽くしていた。

――今日は、本当に長い一日だった。

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