第10話 【理由】(10) 〜エピヌス暦1131年2月〜
次にイリアスが東邸に帰ってきたのは、5日後のことだった。
軍本部や王城に滞在することが多く、たまに帰ってくることがあってもだいたい夜で、翌朝にはまた出かけていくものだから、ほとんど寝るためだけに帰ってくるようなものだ。
その日は前回の帰宅時間よりさらに遅く、夜も更け、もうすぐ日付が変わる時間帯だった。
馬車が去った後の前庭は、辺り一面を覆う雪が音を吸収しているのか、しんと静まり返っている。
屋敷の主は玄関の鍵を開けて中に入ると、出迎えのために起きてきた侍従のテオに労いの言葉をかけ、コートを渡す。
そして、すぐにでも寝支度ができるよう、歩きながら軍服の上着のボタンを外し、シャツに手を掛けた時だった。
視線を感じて、玄関ホールから2階へ続く階段を見上げると、ぼんやりと白い人影が目に映った。
「猫でも逃げ出したのか?」
階段の中腹に幽霊のように
「今日はジェマがニャムを預かってくれてる。交替で面倒見ているの」
どうやらまた新たに仲間を引き入れたようで、瑛璃の口から下働きの女性の名前が出てきた。忙しすぎてほとんど家を空けている主よりも、着実に使用人たちの心を掴んでいるようだ。
「何だ。元気がないじゃないか」
明らかに覇気がない様子が夜目にも見て取れたので尋ねると、
「──もう限界なんだけど」
と、瑛璃が珍しく沈んだ声を出し、重い足取りで階段を一歩一歩降りてくる。
少し前まで距離と暗さのせいでよく見えていなかったが、近くに来て初めて、彼女が
「こんばんは、お嬢さん。若い女性がそんな格好で部屋から出るなど、感心しないな。ロンバルド夫人に見つかりでもしたら、また叱られるぞ」
ロンバルド夫人と聞くや否や、瑛璃は顔を顰める。
「平気よ。年寄りは朝も夜も早いもの。今頃いびきかいて寝ているわ」
冬用の素材で厚みは多少あるものの、薄着であることには変わりがない。やはり寒いのか、瑛璃は体を震わせた。
「立ち話も何だから、書斎にでも行こう」
彼女の脚が忙しなく動くたび、シュミーズの裾からチラチラと青白い
書斎の扉を開錠して瑛璃を中に通すと、彼女は興味深そうに部屋内を見渡す。
「庭からだと広そうに見えたけど、実際は思ったより狭いのね」
「片付けていないから余計にそう見えるんだろう」
壁側に立つ書棚には様々な言語の書物がぎっしりと並ぶ。軍本部の執務室と同様に、机の上には書類と書籍が積み上げられ、ペンやインクなどの筆記用具が雑然と置かれている。
その机の手前には、いかにも仕事用といった室内に不似合いなテーブルと長椅子があった。そこだけ色合いやデザインが他の調度品と異なり、周囲から浮いて見える。
瑛璃がそれを見ているのに気づき、イリアスが説明する。
「仕事をしながらそこで食事を取ったり、その椅子で仮眠を取ったりするために、他の部屋から移してきたんだ」
「外で散々仕事して、帰ってきてからも仕事ばかりなのね」
着座を勧められる前に、瑛璃がその長椅子にどかっと腰を下ろす。
他の部屋から火種を持ってきたテオが暖炉の火を入れ、退出したのを見計らって、イリアスが瑛璃に水を向ける。
「──それで、どうしたのかな?」
イリアスが配慮してわざわざ一人分空けて座ったのに、瑛璃は距離を詰めて座り直し、口火を切った。
「絶対におかしいと思う。淑女に育て上げるとかいうのは口実で、あれはイジメよ」
暖炉に火を入れたばかりでまだ冷たい室内で、寒さのせいか感情的になってるせいか、彼女の頬は紅潮していた。
「軍の懲罰房に放り込まれてた時に比べると、ちゃんとした食事も出るし、温かい湯も使えるし、少しぐらい厳しくされたっていいじゃないか」
「あの牢屋と同じくらい苦痛なんだけど」
「そんなにか?」
あまりに
「現場を見てないから、そんな悠長なことが言えるのよ」
むきになった瑛璃がさらに詰め寄り、その勢いで肩に掛けられていたストールが床に落ちる。
「今日は何をしたんだ?」
拾い上げたストールを掛けてやりながら尋ねると、彼女は堰を切ったように不満を並べ始めた。
「『淑女の手紙の書き方』だの、『社交界での会話の作法』だの、『貞淑・慈善・謙虚とは』だの、とにかく、今後の私の人生に全く役立ちそうにない、退屈な座学ばっかり、朝から晩まで。
このままじゃ体力も筋力も落ちるし、実戦の感覚も忘れちゃう。私が弱くなったら困るでしょ? 何とかして」
息継ぎをする間も挟まず、捲し立てるように喋ると、瑛璃はイリアスの腕を掴んだ。
「わかった。夫人には、明日から君が体を動かせる時間も取り入れるように言っておく。だが、いくら退屈だろうが、面倒臭かろうが、夫人の言う通りにするんだ」
瑛璃はまだ不満げだったが、一部でも嘆願が聞き入れられ、状況が多少改善されそうなことにほっと胸を撫で下ろした。
「──ところで」
イリアスは自分の右腕に回された瑛璃の手を見ながら、怪訝な顔をする。
「君は誰に対しても、こんな感じなのか?」
「こんなって?」
「距離が近すぎる」
先程から密着するように体を寄せてきている瑛璃に対し、呆れたような声で指摘すると、
「だって、くっついた方が寒くないでしょ」
と、彼女はあっけらかんとして答える。
「私のような分別のある相手ならいいが、男はすぐ勘違いするから、気を付けるべきだ」
「大丈夫。私は強い」
返り討ちにしてやるとばかりに、瑛璃が力瘤を作ってみせる。
「確かに君は強い。それは認める。しかし、君は大丈夫でも…。──もういい」
きょとんとした表情で見つめられ、それ以上何を言っても無意味だと判断したらしく、イリアスは深い溜息をついた。
部屋が少しずつ暖かくなってきて、寒さで
「普通は相手のことを知れば知るほど理解が深まるはずなのに、君に関しては、知れば知るほどわからなくなる」
つい3週間ほど前に出逢い、その後、決して多くの時間を共に過ごしたわけではないが、それでもいろんな一面を見てきた。
ところが、徐々に描けるはずの彼女の輪郭は逆に形を失い、ぼやけていく。
暖炉の火が照らす美しい横顔がゆっくりと動き、長いまつ毛の下の双眸がイリアスを捉える。昼間は明るい茶色の瞳が、部屋の暗さも手伝って底のない深淵のようだ。
「変なの。私は私よ」
「──ねえ。あれは何?」
白黒の市松模様の白い指が指し示す先にあるのは、長方形の木製の箱状のものだ。白黒の市松模様の寄木細工が平面を彩っている。
「レクスベラム」
「?」
聞き慣れない言葉に、瑛璃は首を傾げた。
イリアスはそれを瑛璃の目の前まで引き寄せる。
「開けてごらん。ここの
年季が入ったもののようで、よく見ると表面に小さな傷がたくさんついており、留め金やその反対側にある
瑛璃が箱を開けると、中には白と黒の様々な形状の小さな彫刻がぎっしりと収納されている。
馬の頭部を模したもの、塔の形状のものなど、いくつかの種類のあるそれらは、大きいものでは人差し指、小さいものでは小指ほどの高さがある。
「こうして開いた箱を裏返すと、こんな感じだ」
イリアスが中の彫刻を全てテーブルの天板に出し、蓋を開き切った状態でひっくり返すと、正方形になった平面に、白と黒の正方形のマスがならぶ
「『レクスベラム』というのは、古い言語で『戦法』を意味する。このボードとさっきの白と黒の駒を使って対戦するゲームの名称だ。興味があるなら教えよう」
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