第9話 【理由】(9) 〜エピヌス暦1131年2月〜
伸ばした手が瑛璃の胸に触れてしまい、イリアスは反射的に手を引き、一歩後退する。
「すまない」
後ろ手に何かを隠したままの瑛璃が、そんなイリアスを睨みつける。
「──いや、違う。今のは君がわざとやったんだろう」
反射的に謝りはしたが、イリアスが瑛璃の腕を掴もうとした際に、彼女が体を逸らすようにして、確かに自ら胸を押し付けてきたのだ。
「は?
「話をすり替えて誤魔化そうとしても無駄だ」
瑛璃の剣幕に負けじとイリアスが言葉を返しながら、じりじりと彼女を壁際に追い詰める。
日中終わらせられなかった写本の続きをするために瑛璃が自室に戻ったのは、半刻ほど前のことだ。
一緒に退出した侍従のテオは、
彼女が自分に寄せられるテオの好意を利用して、隙をついて鍵をくすねたり、何かしら理由をつけて言いくるめるなりして、もし鍵を入手していたら。
寝室に侵入して何かを持ち出したりするには、十分過ぎるほど時間があった。
「
瑛璃が
「どうして信じてくれないの?」
挙げ句の果てには、潤んだ大きな瞳で見上げてくる。
長い睫毛が頬に落とす影の一本一本が見えるほど近くから、憐憫を誘うかのような表情をされ、普通の男ならころっと態度を変えるかもしれないが、イリアスは違う。
「先日も言ったが、私には色仕掛けも泣き落としも通用しないぞ」
明らかに怪しい行動をしているのに、肝が据わっているというか、単に
その時だ。
お互いに一歩も引かぬまま、ただ時間だけが過ぎていきそうな気配だったのに、急に瑛璃の顔に焦りの色が浮かぶ。
「駄目!」
瑛璃が背中側に隠していた何かを素早く抱え込んでしゃがむ。
その途端、両手に収まるくらいの布切れに包まれたそれがゴソゴソと動いて床に落ち、彼女が息を呑む。
「ニャム、駄目だってば」
布切れの隙間から、その中に隠されていたものがひょっこりと顔を出した。
薄闇に光る二つの目。何か訴えるように開いた口にはまだ歯すら生えていない。
想定していなかった小さな珍客の登場に、今度はイリアスが息を呑む番だった。
「何だそれは」
数歩下がったイリアスが、青ざめた顔でその幼獣を見下ろす。
「かわいそうに。怖かったね」
瑛璃はイリアスのことなどお構いなしに、黒地に茶色が混じった被毛の小さな体を拾い上げ、頬擦りをする。
「どうして猫がここに…」
「数日前に納屋で生まれたの。可愛いでしょ」
「いや、そうじゃない。ロンバルド夫人からは、猫は全部引き取られたと聞いている」
大きなくしゃみをして、イリアスはさらに数歩後退すると、寝室のドアに背が当たった。
「早くそれを家の外に捨ててくるんだ」
「捨てる?」
信じられないと言わんばかりに声を上げた瑛璃が、非難めいた視線をイリアスに注ぐ。
「そうだ。すぐに捨ててきなさい」
「絶対にやだ」
「この屋敷の主人は私だし、私は君の上官でもある。君みたいなただ飯食いに拒否権はない」
一切聞き入れる気がなさそうなイリアスに対して、言い含めるかのように説明する。
「この子は一番体が小さくて衰弱していたから、他の子たちと一緒に引き取ってもらえなかったの。今はだいぶ元気になったけど、まだ声も出せないし、もう少し面倒見なきゃ死んじゃう」
「弱い者は生き残れない。自然の摂理だ」
「ひどい。さすが『白い悪魔』ね。人の心がないんだわ」
瑛璃がイリアスの戦場での異名を引き合いに出して
瑛璃は唇を噛んで俯いた。
「まだこんなに小さいのに、母親に死なれて、兄弟とも引き離されて、ひとりぼっちなのよ。そんな子を、雪が降る寒い夜に外に放り出すなんて……」
しばらく二人の間に重苦しい沈黙が流れた後、イリアスが大きな溜息をつく。
「──そいつはサイファには連れていけない。2週間以内に引き取り手を見つけること。君の部屋以外にそいつを出さないこと。ロンバルド夫人には見つからないようにすること。……わかったな?」
「え?」
「君がここにいる間は、条件付きでそいつをこの屋敷に置いてもいいと言っている」
急に潮目が変わり理解が追いつかない瑛璃に対し、イリアスが呆れながら言う。
「私はもう休む。君もさっさと寝た方がいい」
再度くしゃみをしたイリアスが瑛璃に背を向けて寝室のドアに手をかける。
「ありがとう」
いつになく明るい声を背中に受けながら、イリアスは上着のポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込みながら問う。
「──それと。さっき『ニャム』と言っていたが、そいつの名前か?」
「ええ。そうだけど」
「『ニャム』はアガルタ語で『猫』の意味だろう。安直すぎる」
捨て
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