第8話 【理由】(8) 〜エピヌス暦1131年2月〜
「──正直申し上げて、よくわかりません」
ロンバルド夫人のその言葉に、イリアスが興味深そうに目を瞬かせる。
「さっきご覧になった通り、普段は気が強い生意気な小娘ですが、たまに、何と言いますか……」
「続けて」
「危うい感じといいますか……直接触れたら壊れてしまいそうな何かを持っていて、それを誰にも見せないように、近寄らせないようにしているように感じる時があります」
「そうか」
イリアスは頷くと、揺れる暖炉の炎に目を向けた。
「──とはいえ、だいぶ屋敷の者には
いえ、正しくは、屋敷の者たちが彼女に懐柔されてしまっているようです」
ロンバルド夫人によると、侍従のテオが最初に瑛璃と仲良くなったようで、夫人曰く、すっかり彼女の「
「瑛璃さんがこの屋敷に来て3日目に、裏の納屋で猫が子を産んでるのをテオが見つけたんです」
「猫だと? だから何となく目が
「いえ、母猫は産後すぐ死に、子猫たちは翌日にはヘルガの親戚の農家に引き取られていきましたから、今はおりません」
詩の朗読の時間に子猫がいると聞きつけた瑛璃が、家庭教師を置いて納屋に行き、テオと共に弱っていた子猫たちの世話をしたらしく、その一件で二人の距離がぐっと縮んだようだ。
「テオは若い男だからな。簡単に手懐けられてもおかしくないとは思っていた」
イリアスは紅茶を一口飲むと、受け皿にカップを戻す。
「ところが、あのオットーもすっかり瑛璃さんを気に入ってしまったようで」
「何だって? オットーが?」
驚きのあまり、声が裏返る。
オットーとはこの東邸の料理長で、頑固で無愛想な男だ。人見知りというより、人嫌いなのではと噂されるほど、普段から他人との接触を避けている。
「猫の件と同じ日です。授業をさぼった罰として、昼食抜きにしたんです。その後で、私の目を盗んで厨房に行き、オットーにおなかが空いたと泣きついたようです」
ちょうど使用人たちが賄いを食べる時間で、瑛璃はオットーの横で、分け与えられたスープとパンを美味しそうに食べた。
その日から瑛璃は何かにつけ厨房に顔を出しては、料理の味見をさせてもらっているらしい。
「まあ、オットーも男だから仕方ない。ヘルガはどうなんだ?」
「ヘルガにしては珍しいことですが、娘のように可愛がっています」
ロンバルド夫人の言葉が信じられず、イリアスがむせる。
「──あのヘルガが? 信じられないな」
ヘルガは貴族女性全般に対して批判的だ。
ギレンフォード本家の女性陣に対しては、「お高く止まった鼻持ちならない奴ら」と毛嫌いしており、彼女たちがたまに東邸へ来訪しても、徹底して無愛想に振る舞ってきた。
そんな女中のヘルガまでもが瑛璃を受け入れたと知り、イリアスは唸った。
「髪を結ったり、着替えを手伝ったり、自ら進んで身の回りの世話を焼いています」
「いったい、どんな魔法を使ったんだ?」
感心というよりは、もはや、呆れに近い。
ロンバルド夫人は加齢で落ち窪んだ目を瞬きさせながら言う。
「彼女はとても観察力がありますよね。人をよく見ているんです。
自分が相手にどう見られて、どう思われているかを見抜き、それに応じて立ち振る舞っているのではないでしょうか」
テオは最初から瑛璃の容姿に惹かれていた。
彼女は自分を追う彼の視線を感じていて、猫の一件に乗じて、彼が自分と仲良くなれるきっかけを演出した。
オットーに対しては、厨房を覗いた際に、他の使用人たちと距離を置いて一人淋しく賄いを食べていたのを見て、話しかけた。本当は誰かと関わりたいという彼の気持ちを察したから。
そして、ヘルガに対しては、貴族女性への偏見を感じ取って、自分がこの屋敷に来る前に軍の懲罰房に一週間放り込まれていた話などをして、彼女が嫌うような人種ではないことを示した。
「単に、子猫を見たかったのかもしれません。ただおなかが空いて、料理長に話しかけただけかもしれません。髪を結う時間に、手持ち無沙汰で愚痴を言っただけかもしれません。私の勝手な推測です」
夫人の話に耳を傾けていたイリアスは、長椅子の背もたれに背中を預け、手で額を押さえた。
「──では、私も彼女を手中に収めたのではなく、逆に彼女の手中に収められてしまったかな」
客間の扉をノックする音が聞こえて、ヘルガが新しいティーカップと、淹れ直した紅茶を持ってきた。
「ありがとう、ヘルガ。
──ところで、瑛璃はもうここの生活に慣れたと思うかい?」
退出しかけたヘルガが足を止めて、振り返る。彼女の
「ええ、とても」
それ以上質問を続ける必要はなかった。
ヘルガの姿が廊下に消えると、イリアスは話題を変え、本題に入った。
「──それはそうと、この一週間、瑛璃が私の寝室や書斎に近づくことはなかったか?」
夫人は首を横に振った。
「言いつけどおり、寝室も書斎も施錠して、鍵は私が肌身離さず持っていました。四六時中彼女を見ていたわけではありませんが、大丈夫なはずです」
「そうか」
深い溜め息をつきながら頷く。
今夜は風が強い。風の吹き荒ぶ音に混じって、再び降り始めた雪が窓ガラスに当たって、微かな音を立てる。
しばらくの沈黙の後、ロンバルド夫人が言いにくそうに切り出す。
「──あのう…瑛璃さんがここに来た翌日に、イリアス様の言いつけどおり、医者に健康状態を診させました。その時に医者が言っていたのですが」
夫人は膝の上の骨ばった手をぎゅっと握りしめて目を伏せた。
「表面上は大きな傷痕こそないものの、身体中に古い骨折の痕があり、さらには、その……秘部に裂傷の痕があったようです」
「……」
「それも古いものだったようですが、繰り返し乱暴されたもののようだと」
硬い表情で、言葉を絞り出す。
「先の独立戦争時に、悲惨な光景や出来事を数えきれないくらい目にして来ました。戦火に包まれる街や村。荷台で運ばれる兵士たちや、路傍に打ち捨てられた名もなき庶民たちの亡き骸。親を失い泣く子供たち。敵の兵士に蹂躙される女たち。年端もいかない少女まで」
イリアスに
「遠い異国のことはよくわかりませんが、彼女はアガルタ人なのでしょう? ノルヴィスクのアガルタ侵攻は本当に
聞けば彼女は24歳だそうじゃないですか。まだ若いのに」
ロンバルド夫人は悲痛な面持ちで言葉を詰まらせた。
「優しいあなたにつらい役目を負わせてしまったね。何も知らないふりをして、彼女に接するのは大変だっただろう。ありがとう」
「坊ちゃま、どうか早く戦争を終わらせて、この国が本当の平和を取り戻せるように、お仕事頑張ってくださいませ」
「わかってるさ、グレーテ」
老女の痩せた肩を抱き寄せ、背中を撫でながら、その耳に口元を寄せる。
「──そのためにも、もう少し、彼女のことを知りたいんだ。残り2週間、サイファへ発つまでの間、引き続き彼女に寄り添ってくれるかい?
そしてまた、私がここにいない間のことを報告してほしい」
「勿論でございます」
ロンバルド夫人は頷くと、少し冷めた紅茶を啜った。
「そういえば、鍵は君がずっと
イリアスの言葉に、ロンバルド夫人が首を縦に振る。
「ええ。イリアス様の寝室の暖炉に火を入れなくてはなりませんでしたので、テオに預けました」
「瑛璃が写本の続きをしに戻る際に、テオとここを出たよな……」
「はい、その時にテオに渡しました」
「私は瑛璃の様子を見に行ってから、そのまま今夜は休む。お茶を飲み終わったら、あなたも休んで」
イリアスは長椅子から立ち上がると、足早に廊下に出た。
暖められた客間から一歩外に踏み出すと、冷たい空気が頬を刺し、寒さで体を震わせる。
寒暖差のせいか、くしゃみが出かかって、口を手で覆う。
靴音を立てないようにしつつ、イリアスはゆっくり歩を進める。
玄関ホールから2階へと延びる階段を見上げると、先のわからない薄暗い闇が口を開けていた。
あまり帰って来られないとはいえ、長年拠点にしている邸宅だから、階段のどの辺りを踏めば軋むかはわかっていた。
息を殺して、音を立てないように慎重に一歩一歩上がる。
階段を上り切った辺りで、寝室に続く廊下の方から、衣擦れのような音が聞こえた気がして、顔を向ける。
故意に消したのか、もしくは自然に消えたのか、廊下の明かりは一番奥の蝋燭しか灯っていない。
目を凝らすと廊下の突き当たり…イリアスの寝室の前で、しゃがみ込んでいる後ろ姿が見えた。
「瑛璃」
突如廊下に響くイリアスの声に、びくっと瑛璃の背中が揺れる。
「何をしている?」
イリアスが靴音を立てて進み、彼女の背後に立つと、彼女は素早く身を翻し、壁際に背を向けて立つ。
イリアスは彼女が手に持った何かを後ろに隠したのを見逃さず、彼女の明るい茶色の瞳を見据える。
「別に」
瑛璃は後ろ手にゴソゴソと手を動かしながら、イリアスの目をじっと見つめ返す。
「もう一度訊く。何を……」
くしゃみが出たが、構わず一歩、また一歩と距離を詰める。
「何を持っている?」
「何も持ってない」
明らかに何か隠しているのに平然と嘘をつき、悪びれるどころかむしろ居直っている。
「隠しても無駄だ。見せなさい」
「あぁん」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます