第7話 【理由】(7) 〜エピヌス暦1131年2月〜


理由(7) 〜エピヌス暦1131年2月〜




 玄関の扉を開けた途端、待ち構えていたかのようなタイミングで駆け寄ってきた瑛璃に胸倉をつかまれ、イリアスは苦笑いを浮かべた。

「やあ、元気そうで何よりだ」



 イリアスがローウェルズ国王軍本部から瑛璃の身柄を引き取ってから、一週間ほど経った。


 ギレンフォード家が所有する邸宅のうち「東邸」と呼ばれるこの屋敷に彼女を連れてきた日の翌朝には、屋敷の主イリアスは再び軍本部と王宮の間を行き来する生活に戻り、その間一度も帰ってくることはなかった。


「よくも私を一人ぼっちにして、一週間もほったらかしにしてくれたわね」

 屋敷の前に馬車が止まる音を聞きつけて、玄関ホールまで来たのだろう。瑛璃が恨みがましい口調で詰め寄る。


「とりあえず、外套コートくらい脱がせてくれるかな?」

 イリアスは瑛璃の手を優しく掴んで外套の襟元から引き剥がした。

 後ろで待機していた侍従の青年が外の冷気を吸ったコートを受け取りつつ、ただならぬ雰囲気の主人たちを笑いを堪えながら見ている。


「そんな顔するんじゃない。せっかくの貴婦人が台無しだぞ」


 不服そうに口を尖らせている瑛璃が、ローズレッドのドレスの裾を持ち上げる。

「何でこんなお上品な格好で、朝から晩までくだらないことさせられなきゃならないの?」


「どれ。見せてくれ」

 イリアスは一歩引いて瑛璃の頭のてっぺんからつま先まで確認して目を細めた。


 走って玄関まで来たせいで多少乱れてはいるものの、からす色の髪はきっちりと結い上げられ、紅を差した唇が濡れた輝きを放っている。

 厚みのあるベルベットに覆われた体は柔らかな曲線を描き、その艶やかさ強調していた。


「見違えるようだな」


 板金鎧プレートアーマーを纏った勇ましい姿と、軍の懲罰房での薄汚れた単衣チュニック姿しか見たことのなかったイリアスに、その姿は新鮮に映ったようで、感心したように呟く。


「──立ち話も何だ。温かいお茶でも飲みながら話を聞こうか」



 ここ数日は積もりこそしないものの、日に何度も雪がちらついており、足元から這い上がってくるような冷気が廊下に漂っている。


 客間に連れ立って向かう途中もずっと文句を並べていたが、客間の長椅子に座るや否や、瑛璃はイリアスに再び掴みかかり、畳み掛けるように不満をぶちまけた。


「あのうるさい婆さんを何とかして。何かにつけて言いがかりばかりで、罰とかの名目で食事の品数を減らしたり、ひどい時には食事抜きにするの」


「──『あの煩い婆さん』とは、私のことですか?」


 ドアの向こうから咳払いとしわがれた声が聞こえたかと思うと、瑛璃が反射的にイリアスから手を離す。

 そして、ドレスの裾を整えながら座り直し、背筋をぴんと伸ばした。


「失礼します」

 館の主に入室を許可されると、白髪をきっちりとまとめた60代くらいの女性が姿を現し、彼女に続いて給仕の女性が入って来た。


「イリアス様、お茶をお持ちしました」

 侍従長のマルガレーテ・ロンバルドは会釈をすると、給仕の女性に目配せして、ティーテーブルにポットとカップを並べさせる。

 痩せた体躯はまるで針金を入れているかのように背筋が真っ直ぐに伸びており、矍鑠かくしゃくとしている。



「瑛璃の世話をありがとう。あなたのおかげで彼女の美しさにさらに磨きがかかったようだ」


 ロンバルド夫人はちらりと瑛璃を一瞥して、溜息混じりに言う。


「一応、見てくれは何とかできましたが、問題は中身です。イリアス様は3週間で完璧な貴婦人に仕上げるよう私に申し付けられましたが、残りあと2週間ではとうてい無理です。あと100年はかかります。私の生きている間にはできそうにありません」


「あと300年は軽く生きそうなのに」

 ぼそっと瑛璃が呟いたのを聞き咎めて、ロンバルド夫人が冷たい目線を送る。


「二人ともすっかり仲良くなってくれたようで、嬉しいよ」

 カップに注がれた紅茶を一口飲むと、イリアスが微笑む。


 別の部屋から移してきた暖炉の火が大きくなり、ようやく部屋が温まってきた。


「私はイリアス様が女性を連れて来たと聞いて、本当に嬉しかったんです。ついにどちらかのご令嬢を見初みそめられたのかと。それなのに、こんな性悪娘など」

 芝居じみた動作でロンバルド夫人は顳顬こめかみに手を当てる。


「悪かったわね。性悪で」

 一切悪びれる様子なく、瑛璃はふんぞり返って鼻を鳴らす。


「親犬とはぐれた哀れな子犬を拾ってくるのとはわけが違います。こんな野犬みたいなのを……実に嘆かわしゅうございます」

「噛みついて差し上げましょうか、ロンバルド夫人」


「こら、瑛璃。揶揄からかうんじゃない」

 二人のやり取りを聞いていて堪えきれなくなったのか、イリアスが肩を揺らして笑う。


「イリアス様、聞いたでしょう? こうやって反抗的な態度を取ったり、生意気な口をきくから、我々はほとほと手を焼いているのです」

「それは本当なのか、瑛璃」


 しらばくれているのか、当の本人は艶やかな唇をカップにつけ、優雅に紅茶を飲んでいる。


「まあ良い。それよりも、何回か逃げようとしたらしいじゃないか」

 一見すると笑顔だが、イリアスの目元は笑っていなかった。


「だって、こんなヒラヒラした窮屈なドレスを着て、四六時中、歩き方やら姿勢やら矯正されながら、言葉遣いや立ち振る舞いまで、この婆さんがいちいち怒るんだもん。息苦しくて、外の空気を吸いたくもなるわ」


「また『婆さん』って言いましたね?」

「だってどう見ても婆さんじゃない」

「今でこそ若いけれど、あなただってあと40年もすればその綺麗な肌も皺くちゃになって、その黒髪も痩せて真っ白になるし、その胸の脂肪の塊も縮んで醜く垂れ下がるんですからね!」




「夫人、落ち着いて。それに、瑛璃。年長者には敬意を払わないと駄目だろう」

「わかってる。だから、いくらむかついても、手荒な真似はしてない」


 窘められて不服そうな瑛璃の肩に手を置くと、イリアスが言う。

「私がいない間、この屋敷での君の上官は、ロンバルド夫人だ。わかったかい?」


「……はい」

 それでも納得はしていないようで、瑛璃はそっぽを向いて返事をする。


「私にはまだ受け入れられません。聡明なイリアス様がどうしてこんな小娘にたぶらかされたのか」


「慌ただしく引き渡したから、ちゃんと説明していなかったね。──安心してくれ。彼女とはそういう関係ではないし、これから先も絶対にそうはならない」


 イリアスの言葉に夫人は嬉しそうに大きく頷き、一方で、瑛璃は気に入らないとでも言いたげに片方の眉を上げる。

「ふうん。言い切るなんて、随分自信があるのね」


 挑発に乗ることなく、イリアスは鼻先で笑う。

「仕事上の付き合いに私情は挟まない。たとえ君が私の寝台の上で裸で横たわっていようと、指一本触れずに朝まで過ごすさ」


「へえ、そうなんだ。いきなり私邸に連れてくるから、多少下心があるのかと思ってたけど」

「君は私の作戦の重要な鍵だ。…もちろん、君が魅力的であることは否定しないが」


「『鍵』ね」

 瑛璃は薄く開かれた唇をカップに当て、最後の一口を含み、ゆっくりと嚥下した。透き通るような白磁の喉元があやしく動く。

 そして、からになったカップをソーサーに戻すと、イリアスを横目で見ながら後れ毛を耳にかけた。


「イリアス様。瑛璃さんですが、実は日中に写本の課題を終わらせることができず、夕食後に続きをさせていたんです。そこで急に飛び出していったものですから」


 恐らくこのまま課題の続きを有耶無耶にしようとしていたのに、当てが外れたのであろう。

 瑛璃はロンバルド夫人の言葉に苦虫を噛み潰したような表情をした。


「それは良くないな」


「──ちょっと待って。そもそも、何で写本とか礼儀作法とかやるの? 本当に必要なの?」

 食い下がる瑛璃に対し、イリアスが突き放す。

「当然だ。最低限のことは身につけてもらわないと困る」


 がっくりと項垂うなだれた瑛璃を侍従の青年が引き取り、ドアの向こうに消えた。


「ヘルガ、ロンバルド夫人の分のカップも持って来てくれないか」

 主人の指示に、瑛璃のカップを下げていた給仕の女性は返事をすると、ティーワゴンと共に部屋を後にする。


「──さて、グレーテ。そこに座って、報告を聞かせてくれるかい?」

「勿論でございます。それでは失礼して…」

 着座を勧められて、恐縮しながらロンバルド夫人が腰を下ろした。


「私はあなたの人を見る目を誰よりも信頼している。この一週間、率直にどう感じた?」

 灰色がかった青い目で見つめられた夫人は、躊躇とまどいながら口を開いた。

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