第5話 【理由】(5) 〜エピヌス暦1131年2月〜
彼女は「でしょうね」と呟き、肩を
イリアスの
「──それで、王に会わせてくれないなら、さっさと私を解放して。武芸大会をぶち壊した罰はもう十分でしょ。初犯だし、大目に見てよ」
唇の端に笑みを浮かべ、低く甘い声で囁くように言う。体を前に倒すと豊かな胸が揺れた。
武芸大会の日は
それどころか、誰一人として女性だということすら気づきもしなかったとは信じがたい。
「戦士になったり、野犬になったり、娼婦になったり、君は忙しいな」
イリアスは椅子の上で腕組みをしたまま微動だにしない。目の前の美女の挑発的な仕草など、全く意に介さない様子だった。
「こんな手にキンケイドは引っかかったのか」
「騙される方が悪いと思わない?」
武芸大会が一時中断となった後、彼女とキンケイド、それぞれをこの部屋に連れてきて事情聴取したところ、事の次第が判明した。
武芸大会初日の夜、キンケイドは家路に就いていたところ、繁華街のとある酒場の前で女に声をかけられた。
色香に惑い、一杯だけということで一緒に酒を呑んだ。
次の日も試合があるが、酒には強いという自負があり、一杯だけなら支障はないと思ったそうだ。そして、何より異国の美しい女の誘いである。
酒を呑み始めると、一杯だけでは終わらなかった。そして、呑んでいるうちに、いつの間にか眠気が襲い、気づけば朝になっていて、酒場に併設された宿屋で目を覚ました。
まだ東の空の白み始めた時間帯で、キンケイドは隣で眠る名前も知らない女を置いて逃げるように部屋を去り、馬車をつかまえて取るものも取りあえずいったん家に帰った。
それから身支度を整えた後、武芸大会会場に向かった。
そして、会場の更衣所で前日預けて帰った
なぜ一般人が入れないはずの場所に彼女がいたのかなど、動揺しすぎて、そこまで頭が回らなかったようだ。
眠っているのをいいことに、黙って置き去りにした後ろめたさがあった。また、うっかり宿に置いてきたらしい家紋の入った指輪を彼女に見せられ、慌ててしまった。
その時は何も不思議に思わず、彼女に導かれるままついていった。
そして、突然背後を取られて首を締め上げられて気を失ってしまった…というのが、キンケイドの語る顛末であった。
「──残念ながら、私は騙されないぞ」
椅子から立ち上がって彼女の目の前に立ち、ゆっくりかがみ込んで、彼女の
「仲間は? 背後に協力者がいるんじゃないのか?」
「そんなのいるわけないじゃない。いないから、こうして国王に後ろ盾になってもらおうとしてるの」
女はその大きな目でイリアスを睨みつける。
「数週間かけて、下調べしながら計画を練りつつ、武芸大会の出場者の情報を集めた。御しやすそうなあの男に狙いを定めて、行動傾向から生活様式まで観察してたの。尾行にも気づきもしない、間抜け男よ」
「その間抜け男の弱みを握るために寝たのか?」
「寝てない。酒場の主人に金を握らせて、“強め”にしてもらった酒を飲ませただけ」
「何てことだ、間抜けすぎる」
キンケイドが騙された手口を聞けば聞くほど呆れを通り越して虚しくなり、イリアスは頭を抱えた。
「本当に君は、国王に会うためだけに、そんな手の込んだことをやってのけたのか?」
「そうよ、何回も言ってるじゃない」
「私に用があるのかと思っていた」
「は?」
彼女が苦虫を噛み潰したような顔をする。
「気を悪くしたなら謝るが、私に近づいてくる女は発情した猫みたいな婦人か、私を殺そうと企む敵の手の者だからな」
「魅力的な殿方は大変ね」
彼女はそっぽを向いてイリアスの手から逃れると、再び彼の方を向いた。射るような鋭い視線だ。
「とにかく、国王に会わせてくれないなら、あなたに用はないわ。別の手を考える。私は一人でも闘う。ミハエル・ソネンフェルドを地獄に堕とすまでね!」
媚びて協力を請うことを完全に放棄したようで、彼女は不満げに膨れっ面をする。
そのあまりにもふてぶてしい態度にイリアスは思わず吹き出した。
しかし、それが余計に彼女の癪に触ったようで、火に油を注ぐ結果となった。
「でもね、これだけは言っておくけど、さっきのあなたの話、いくつか間違っている。
まず、停戦合意を破棄したのは父ではない。父はそんなこと絶対にしないし、事実、してない。ノルヴィスク側に仕組まれて、こちらが裏切ったかのように偽装された。そして、それを口実に、あいつらが奇襲をかけてきたの!」
矢継ぎ早に捲し立て、さらに彼女が続けようと口を開きかけたのを、イリアスが制する。
「そうだろうな。当時の状況を考えても、アガルタ側が一方的に協定を反故にするのは、弊害こそあれ、恩恵はなさそうだった。君の言うとおりだったんだろう」
小国であるアガルタが、オルテア大陸一の大国であるノルヴィスクの侵略から免れていたのは、その地形と民族性にあった。
国土の三分の二が山岳地帯であり、密林が多いアガルタは、巨大な軍事力のあるノルヴィスクが進軍しようにも、複雑な地形や密生した木々が行手を阻み、大規模な部隊の移動が困難で、補給線が脆弱になってしまう。
また、その地形や植生のせいで見通しが悪く、敵がどこにいるのか見えづらかったり、特有の風土病や動植物などの環境的弊害もあり、まともに真っ向から戦争しようとすれば長期化・泥沼化する可能性があった。
そして、アガルタ国民の大部分を占めるアガルタ族は周辺国の民族と比べて長身であり、身体能力も優れていることで知られていた。
彼らは山岳の過酷な環境に耐え狩猟を盛んに行ってきた中で進化し、戦闘民族とも評されるほど戦闘に長けていた。
地の利のない外部からの侵入者にとっては危険地帯でも、彼らにとっては庭のようなものである。
そのような状況で、ゲリラ戦を得意とする彼ら相手に戦いを挑むのは、あまりに
ノルヴィスクのような大国であっても、いたずらに戦力や軍資金を消耗してしまいかねない。
そして、時間や労力を割いて仮に侵略が成功したとしても、社会基盤の整備や治安維持を行うには巨額な支出となるだけで、ノルヴィスク側にアガルタの国土から経済的に得るものが少ないと見られていた。
──その時までは。
「私が思うに、ソネンフェルドは『黒い水』の存在を嗅ぎつけたんだと思う」
「『黒い水』?」
イリアスが聞き慣れない言葉に眉を顰める。
しかし、すぐにそれが何を意味するのか悟ったようだ。
「──原油か」
彼女が頷く。その表情は硬い。
「確か、公的には、ノルヴィスクがアガルタを占領した後、ソネンフェルドが軍を引き上げる途中の地で、偶然地表に染み出している原油を見つけたことになっている。そこから原油採掘が始まり、その後、石炭などの他の地下資源も見つかって、大規模な採掘に発展したと」
「そんな都合のいい偶然ある?」
彼女は鼻で笑う。
「あいつはもっと前に『黒い水』の存在を知って、利権を奪うために私たちの国を滅ぼしたのよ」
「侵攻して手に入れても旨味がないと踏んでいた小国が、実は地下資源が豊富にある宝の山だと知り、結んでいた停戦協定が邪魔になった。だから、アガルタ側が裏切った
イリアスは立ち上がり、先程まで自分が腰掛けていた椅子を引き寄せて彼女を座らせると、その肩に手を添えた。
「私は別に、君を疑っているわけじゃない。完全に信じきれないだけだ。──だから…」
その時だった。
再びノックの音が執務室に響いた。
「ようやく来たか」
待ち侘びていたように、イリアスが嬉々として訪問者に入室を許可する。
「失礼します」
低く掠れた男の声。扉が軋みながら開かれると、ひやりと冷たい風が廊下から侵入してくる。
プレートアーマーを着た者が歩行時に立てる、金属板の継ぎ目や留め具が軽く擦れる音が聞こえた。
「紹介しよう、ローウェルズ国王軍第4連隊の、ゼイン・カーライル連隊長だ」
(つづく)
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