第4話 【理由】(4) 〜エピヌス暦1131年2月〜

 その日は朝から雪が降ったり止んだりを繰り返していたが、午後になると晴れ間も出て、時折陽光が室内に差し込むようになった。しかし、依然として空気は刺すように冷たい。


 武芸大会から一週間が経ち、ヴラトニツァとその一帯が本来の冬らしい天候に戻り始めた頃だった。


 ローウェルズ国王軍本部の廊下を、兵士二人が若い女を連行していた。

 彼女は罪人のように両手首を縄で縛られたうえに、その縄をさらに腰にも巡らせて厳重に拘束されている。


 男所帯である軍の施設ということもあって、彼女は男物の単衣チュニックを着させられていた。

 裾が捲れて時々覗く白い脚は、すらりとしつつ引き締まっていて、裸足でいるせいか一層寒々しく見える。


 イリアスが執務室で書類に目を通していると、部屋のドアを控えめに叩く音が聞こえた。


「ギレンフォード中将、連れて参りました」

「入ってくれ」


 手にしていた書類を机の上に伏せると、イリアスは開け放たれたドアの向こうに立つ人物に視線を向けた。


 彼女の長い黒髪は乱れ、肌は艶を失い、その色は白というよりは蒼白だった。

 焦点が定まっていないような目がイリアスの姿を捉えると、その途端に強い光を帯びる。まるで野生の獣のような輝きだ。


 兵士2人に促されて入室した女は一瞬足元をふらつかせて、膝から崩れる。


「大丈夫か」


 イリアスが立ち上がって彼女の元に駆け寄ろうとしたところ、兵士たちがすかさず止める。


「危険です、噛みつかれますよ」

 野犬か何かの話をしているかのような口ぶりだ。


「どうやらまだ元気が有り余っているようだ」

 イリアスは溜め息をつきながら、座っていた椅子を持ち上げ、自分の机の前に移動させて再び腰掛ける。


「懲罰房に水を持ってきた兵士に頭突きを喰らわせたり、仮病を使って油断させたところを絞め技で失神させたり、いろいろ暴れてくれたらしいな」


 身を乗り出すようにして顔を覗き込まれ、アガルタ王国の元王女を名乗る女は、無言でイリアスを睨む。


 この一週間、水しか与えられなかったせいで幾分か痩せて見える。

 目の下には濃い隈が浮かび、唇は乾燥して土気色をしている。

 決して衛生的とは言えない独房で、冬場とはいえ体を洗うこともできず、すっかり全身薄汚れているが、凛とした佇まいには気高さすら感じられた。


「大したものだ」


 普通、大の男でも三日と経たないうちに音を上げるのに、7日間も飢餓刑に耐えただけでなく、こうして四面楚歌で逃げ場のない状況であっても威嚇する。並大抵の精神ではない。


「この一週間、調べさせてもらった」


 イリアスは執務室内に常駐している護衛の兵士を呼ぶと、一言二言交わし、他の兵士と共に退出させた。

 こうして二人きりになると、イリアスが口火を切った。 


「アガルタ王国最後の王・氾慈ハンジには、3人の子供がいた。長女の名前は瑛璃エイリ。ノルヴィスク帝国との停戦合意をアガルタ側が一方的に破棄したとして急襲を受け、父と弟が殺され母が自害した時に、彼女は15歳。──生きていれば、ちょうど君くらいの年齢だ」


 9年前、アガルタの首都・牙陀ガンダに、ノルヴィスク軍が深夜に奇襲を仕掛けた。


 まず王宮に侵入した部隊が国王を追い詰め、彼の幼い息子と共に殺害し、続けて王妃たちを手にかけようとしたところ、王妃によって娘2人を逃した後だった。その後、王妃は自害。娘たちはそのまま行方不明となっている。

 ──それがアガルタ王国関連で残されている公式な記録だった。


「私のつてで調べたところによると、その後、ノルヴィスク帝国内で瑛璃という名前が記録されている。アガルタ滅亡の約2年後、ノルヴィスク東部の都市・ヴェリョージャで、スヴェルト侯爵の屋敷で火災が起きた。その際に逃亡した四人の奴隷の中にその名があった」


 スヴェルトという名前を聞いた途端、彼女は不快そうに顔を顰めた。


「噂によると、スヴェルトは奴隷商から美しい少女を買ってきては虐待するのが好きなようだな」


 彼女は唇を噛み締めた。死人のように青白かった頬が見る見るうちに紅潮する。


「アガルタの王女と、スヴェルト公爵邸から逃亡した奴隷は名前が同じだけじゃなく、身体的特徴も似ている。当時は10代、今は20代でそれなりに成長したと思うが、変わらない部分もあるはずだ」


 椅子から立ち上がり、彼女の目の前でしゃがむと、冬空色の目で彼女をじっと見据えて釘を刺す。

「少し髪や耳に触れるが、絶対に噛みつくんじゃないぞ。絶対に、だ」


 彼女は返事の代わりに顔を右に向け、左耳を彼に向ける。

 ゆっくりと男の長い指が彼女の頬にかかった髪を後ろにやり、左の耳介に触れて少し前に倒す。


「……あった」

 わずかに驚きが混じった声。


 左の耳朶の裏に、小さなほくろがひとつ。


「刺青でもなさそうだ」

「もういいでしょ」


 耳に触れていた指を払うように彼女が首を振ると、また長い髪が顔にかかる。


 イリアスは溜め息をつきながら立ち上がり、机の上に置いていた資料に手を伸ばす。

 そして、その中から陽に焼けて変色している一枚の紙を摘み上げた。そこには若い黒髪の娘が描かれている。


 指名手配書を目の前に突きつけられた彼女は、不機嫌そうに眉根に皺を寄せた。

「全然似てない」


 手配書に唾を吐かれ、イリアスは咄嗟に手に持っていたそれを床に落とす。古びた紙切れはひらりと滑り、入口の手前で動かなくなった。


「一週間で調べられたのはここまでだ。君がアガルタの元お姫様だという確証は得られなかった」



(つづく)


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