【中巻:黄金の檻】第二章 数字の戦争

 1939年9月1日、ドイツ軍はポーランドへ侵攻した。ヒトラーはラジオで、これは戦争ではなく、「ダンツィヒにおけるドイツの経済権益を保護するための限定的な警察行動である」と宣言した。しかし、その言葉を信じる者は、もはや誰もいなかった。二日後、英仏がドイツに宣-戦布告し、ヨーロッパは再び炎に包まれた。第二次世界大戦の始まりだった。

 私の役割は、開戦と同時に「経済相」から「戦時経済総監」へと変わった。私のオフィスは、総統官邸から国防軍最高司令部(OKW)の一角へと移された。そこは、硝煙の匂いこそしないが、間違いなくこの戦争の神経中枢(ナーヴ・センター)だった。壁一面に広がるヨーロッパ地図の上を、参謀たちが兵団を示す駒を動かす。私の仕事は、その駒が滞りなく動き続けるように、燃料、弾薬、食料といった「資源」の流れを最適化することだった。

 ポーランドは一ヶ月もたずに蹂躙された。その成功の要因は、戦車部隊の機動力だけでなく、私が構築した兵站システムにあった。鉄道網は完璧に機能し、前線の兵士まで温かい食事が届けられた。私は、自らが設計したシステムのあまりの効率性に、我ながら戦慄した。

 翌1940年の春、ドイツ軍の矛先は西へと向けられた。フランス、ベルギー、オランダ、デンマーク。かつて私が「非効率な旧世界」の象-徴と見なした国々が、ジェット戦闘機を擁する空軍と、無線で連携する機甲師団の前に、なすすべもなく崩壊していく。パリは、ほとんど抵抗らしい抵抗もなく陥落した。

 私は、占領地の管理という新たな任務を与えられた。フランス銀行の金塊、オランダの工業機械、ルーマニアの油田。それら全てが、私のデスクの上で数字となり、資産として計上され、ドイツの戦争機械をさらに強化するために再分配されていく。私は、歴史上最も効率的な略奪者となったのだ。

 占領地の統治は、SS長官ハインリヒ・ヒムラーの管轄だった。彼の統治方針は、ヒトラーの思想を完璧に反映していた。人種による選別は行われない。ただ、貢献度と効率によって、人々の運命が決められた。

 フランスの有能な技術者は、ドイツの工場で働くことを強制され、高い給与を与えられた。一方、抵抗運動(レジスタンス)に参加した者は、「国家の生産性を害するテロリスト」として容赦なく処刑された。ポーランドやウクライナの農民は、「非効率な土地管理者」として土地を奪われ、ドイツの国営農場で働く農奴とされた。彼らの食料は厳しく管理され、そのほとんどがドイツ本国へと送られた。

 私の元には、毎日のように占領地の生産性に関する報告書が届いた。

「ウクライナ穀倉地帯、今四半期の徴発量、前年同期比180%を達成。ただし、現地住民の栄養失調による死亡率が推定30%上昇」

「フランス北部炭鉱、捕虜の強制労働により生産性150%向上。ただし、保安措置の簡略化により、落盤事故による死者数が5倍に増加」

 私は、その報告書の数字に、ただ黙ってサインをした。一人一人の死は、私の報告書の中では、生産性向上のための「許容可能なコスト」として処理された。夜、書斎で一人、グラスを傾ける。かつて経済学の書物が並んでいた本棚には、今や占領地の資源分布図や生産性統計の分厚いファイルが、墓石のように並んでいた。

 そんなある日、私のオフィスに、国防軍情報部(アプヴェーア)のカナリス提督が訪れた。彼は、一枚の写真を無言で私の机に置いた。

 それは、ロンドンのトラファルガー広場で、亡命者たちに向かって演説する、弟ダニエルの写真だった。

「ご令弟は、BBC放送で、英雄として扱われているそうですな」カナリスは静かに言った。「彼の放送は、占領地のレジスタンスを勇気づけている。彼は、我々の『効率的な統治』を、非人道的な搾取だと非難している」

「……」

「そして、彼はあなたの名を挙げて、こう言ったそうです。『私の兄、レオ・メンデルシュタムは、悪魔に魂ではなく、その知性を売り渡した。彼の築いた繁栄は、何百万もの人々の血と涙の上に成り立っている』と」

 私は、写真を握りしめた。ダニエルの顔が、憎しみと軽蔑に歪んで見えた。そうだ、彼の言う通りだ。私は、この戦争の共犯者だ。それも、最も有能で、最も罪深い共犯者だ。

「ヒムラー長官は、ご令弟の活動を非常に問題視しておられる」カナリスは続けた。「彼は、パリに残っているご令弟の奥方のご親族を、『反国家的分子との繋がり』を理由に逮捕する許可を、総統に求めているとか」

「何だと!?」私は思わず立ち上がった。ヒムラーは、ダニエルを黙らせるために、罪のない親族を人質に取ろうとしているのだ。

「総統は、まだ許可を出してはおられん。あなたの功績に免じてな」カナリスは私の目をじっと見つめた。「しかし、それも時間の問題でしょう。……メンデルシュタム大臣、この戦争は、どこへ向かっていると思われますか?」

 その問いは、単なる雑談ではなかった。それは、反逆への誘いであり、踏み絵だった。

 私は、窓の外を見た。オフィスからは、整然と区画整理されたベルリンの街並みが見渡せる。私の作った、秩序正しい、美しい街。だが、その秩序を維持するために、今この瞬間も、遠い占領地で名もなき人々が死んでいる。

「……破滅へ、ですな。提督」

 私は、ついに心の奥底にあった言葉を口にした。

「どんなに効率的なシステムも、無限に成長し続けることはできません。やがて自らの重さで、崩壊する運命です」

 カナリスは、かすかに頷いた。

「その崩壊の前に、我々がやらねばならんことがあるのかもしれませんな」

 彼はそれだけ言うと、敬礼し、部屋を出ていった。

 一人残された部屋で、私は弟の写真を見つめた。

 ダニエル、君は正しい。私は、間違っていた。

 だが、もう遅いのだ。私は、この血塗られた国家の中枢から、もう降りることはできない。ならば、進む道は一つしかない。

 このシステムを、私が作ったこの効率的な怪物を、その内側から破壊する。

 たとえ、その瓦礫の下で、私自身が圧し潰されることになったとしても。

(中巻・第二章 了)

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