【中巻:黄金の檻】第三章 黄金の檻の異邦人

 1940年11月、ベルリン郊外、カイザー・ヴィルヘルム物理学研究所

 私の名は、アラン・キーガン。ケンブリッジ大学で将来を嘱望された原子物理学者だった、と過去形で言うべきだろうか。今、私の祖国イギリスは、ドイツ空軍の爆撃に怯え、闇に閉ざされている。一方、私がいるここベルリンは、ヨーロッパで最も明るく、そして最も研究に適した場所だった。

 私がドイツに来たのは、一年前のことだ。「帝国才能誘致局(RTE)」のスカウトが、私の論文を読んだと言って、ケンブリッジの研究室に現れた。彼が提示した条件は、悪魔的なまでに魅力的だった。国家予算に裏打ちされた、無制限の研究費。最新鋭の実験設備。そして何より、「人種や国籍、思想信条は問わない。ただ、あなたの才能だけを評価する」という言葉。

 当時のイギリスの学界は、戦争を前に予算を削減され、停滞していた。私は、政治には何の興味もなかった。ただ、原子の核(コア)に秘められた、宇宙の真理に迫りたいだけだった。その探究心の前では、国家の境界線など、地図の上に引かれた便宜的な線に過ぎなかった。私は、ドイツ行きを決めた。

 そして、ドイツは約束を守った。

 私の研究所は、城のように壮麗で、与えられた予算は、ケンブリッジの一年分をひと月で使い切れるほどだった。ユダヤ系の亡命で失われた頭脳の空白を埋めるため、私のようなアメリカ人、スウェーデン人、果てはインド人の科学者までが、ここでは同僚として働いていた。我々は、互いの才能を尊敬しあい、毎晩のように議論を戦わせ、人類の知のフロンティアを猛烈な勢いで押し広げていた。ここは、科学者のための理想郷(ユートピア)のように思えた。

 異変に気づき始めたのは、数ヶ月が経った頃だ。

 私の同僚に、ヴェルナー・シュミットという快活なドイツ人の量子力学者がいた。彼は、ある日の昼食の席で、ワインの勢いも手伝って、こんな冗談を言った。

「ゲッベルス博士の言う『国家の効率化』も結構だが、シェイクスピアのソネットのどこが非効率だと言うのかね? 我々には、パンだけでなく、時には無駄な詩も必要なんだがな」

 それは、その場にいた誰もが笑って聞き流した、ささやかな冗談だった。

 翌日、ヴェルナーは研究所に現れなかった。

 公式発表は、「東部戦線の発展に寄与する、新たな特別プロジェクトへ、昨日付で転属となった」というものだった。誰も、それ以上は聞かなかった。彼の研究室は、まるで彼が最初から存在しなかったかのように、一日で空になった。彼の名前は、所内の名簿から消されていた。

 その夜から、私は眠れなくなった。

 私は、自分の研究室が、完璧な静寂の中に、常に不自然なノイズを拾っていることに気づいた。壁の裏に仕掛けられた、高性能の盗聴マイク。私が図書館で借りる本は、全て記録され、私が送受信する手紙は、全て開封され、検閲されていた。

 ここは、理想郷(ユートピア)などではない。

 最高級の餌と、快適な環境を与えられた、黄金の檻だ。そして我々科学者は、その中で飼われている、価値あるカナリアに過ぎない。我々の才能は、真理の探究のためではなく、この国が求める「効率的な成果」――すなわち、より強力な爆弾、より速いジェット機、より殺傷能力の高い毒ガス――を生み出すためだけに求められている。我々が美しい声で鳴くのをやめれば、あるいは、飼い主の気に入らない声で鳴けば、待っているのはヴェルナーと同じ運命だ。

 私は今、人類を永遠に変えてしまうかもしれない、ある方程式の最終段階にいる。「核分裂の連鎖反応」。理論上は、一握りのウランから、一つの都市を消滅させるエネルギーを解放できる。アメリカやイギリスの仲間たちも、同じ研究をしているはずだ。だが、このドイツの潤沢なリソースがあれば、私が最初にその悪魔の扉を開けてしまうだろう。

 そして、その扉を開けた時、この国の指導者――アドルフ・-ヒトラーが、その力をどう使うか。答えは火を見るより明らかだ。

 私は、決意した。

 この研究を、完成させてはならない。そして、この知識を、この黄金の檻から、外の世界へ持ち出さねばならない。

 私の本当の戦争が、今、始まった。それは、物理法則と、そしてゲシュタポの監視網との戦いだ。私の頭脳は、今や、私自身を救うための、唯一の武器となった。

(中巻・三章 了)

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