【中巻:黄金の檻】第一章 地図に引かれた線

 オリンピックの熱狂が去ったベルリンの街には、日常が戻っていた。だが、それはもはやヴァイマル時代のような混沌とした日常ではない。SSの黒服が監視する、静かで、規律正しく、そして息の詰まるような日常だった。私は、経済相として、そしてヒトラーの「奇跡」の演出家として、巨大な国家機構の歯車を回し続けることに忙殺されていた。私の名は、ユダ-ヤ人でありながら「帝国貴人」の称号を持つ、体制の成功例として国内外に広く知れ渡っていた。

 しかし、総統官邸の奥深くで行われる会議の空気は、明らかに変わりつつあった。議題は、もはや国内の失業率や生産性の向上ではなかった。議題の中心にあったのは、常にヨーロッパの地図だった。

 1938年3月。最初の目標は、オーストリアだった。

「オーストリア併合(アンシュルス)は、血統や民族の問題ではない」ヒトラーは、居並ぶ閣僚と国防軍の将官たちの前で断言した。「これは、経済的必然だ。オーストリアの鉄鉱石と、優秀だが活用されていない労働力は、ドイツ経済圏のさらなる発展に不可欠な資源である。彼らを非効率な統治から解放し、我々の偉大なる生産共同体へと統合するのだ」

 彼の言葉は、かつてローゼンベルクらが唱えた「大ドイツ主義」とは似て非なる、冷たい響きを持っていた。それは、優秀な企業が、経営不振の競合他社を買収する際の論理そのものだった。

 私の役割は、その「買収」を、いかに血を流さず、国際社会に正当なものとして認めさせるかの設計図を描くことだった。私はオーストリアの経済界にパイプを持つドイツの銀行家たちを動かし、併合がもたらす経済的利益を説かせた。ゲッベルスの宣伝省は、オーストリア国民に対し、職と安定を約束するキャンペーンを展開した。そして、国境には、示威行為として機械化師団が集結した。その師団が走るアウトバーンも、その戦車を動かす合成燃料も、元をたどれば私の計画の産物だった。

 結果、ドイツ軍は一発の銃弾も撃つことなく、ウィーンへと無血入城した。国際連盟は非難声明を出したが、軍事行動を起こす国はなかった。「民族自決」という、抗いがたい大義名分を、ヒトラーは巧みに利用したのだ。

 その数ヶ月後、ヒトラーの目はチェコスロバキアのズデーテン地方へと向けられた。

 今度の口実は、ズデーテン地方に住むドイツ系住民の「経済的権利の保護」だった。だが、真の目的は、シュコダ財閥が所有するヨーロッパ最大級の兵器工場と、豊富な石炭資源であることは、私には分かっていた。

 英仏の抵抗は、オーストリアの時よりも強かった。ヨーロッパに、再び大戦の暗雲が垂れ込めた。ヒトラーは、私をミュンヘンへ向かう交渉団の一員に指名した。

「メンデルシュタム、君の出番だ」総統執務室で、ヒトラーは私に言った。「チェンバレンやダラディエといった、あの古い世界の商人たちに、戦争がいかに『不採算』なビジネスであるかを、君の数字で教えてやれ」

 1938年9月、ミュンヘン。私は、イギリスのチェンバレン首相とフランスのダラディエ首相を前に、分厚い経済データを広げていた。

「首相閣下。ズデーテンの工業地帯がドイツ経済圏に統合された場合、欧州市場にこれだけの経済効果が生まれます。しかし、もし戦争となれば、両国の経済が被る損失は、最低でもこの数字の20倍に達するでしょう。これは、破滅的な投資です」

 私の言葉は、冷静で、客観的で、そして脅迫的だった。私は、ナチス・ドイツの経済相として、平和を説きながら、その実、戦争という選択肢を天秤に乗せ、相手を脅していた。

 チェンバレンは、私の提示した膨大な損失予測データと、彼の諜報機関が報告するドイツ空軍の圧倒的な戦力とを比較し、最終的にペンを取った。ミュンヘン協定。それは、平和を守った歴史的合意として、ヨーロッパ中に報道された。チェンバレンはロンドンで「我々の時代の平和」だと演説し、民衆の喝采を浴びた。

 だが、ベルリンに戻った私を迎えたヒトラーの言葉は、全く違うものだった。

「見事な仕事だった、メンデルシュタム。君はペンと数字だけで、一個師団分の働きをした。だが、忘れるな。平和は目的ではない。次なる飛躍のための、準備期間に過ぎん」

 彼の執務室の壁に掛けられた地図には、チェコスロバキアの残りの部分と、ポーランド回廊を示す場所に、赤い鉛筆で新たな線が引かれていた。

 その夜、私は官邸の自室で、深酒をした。グラスの中の琥珀色の液体が、まるで血のように見えた。

 私は、平和を守ったのではない。ただ、より大きく、より破滅的な戦争の準備時間を、この手に汗して稼いでやっただけなのだ。私はもはや、経済学者ではない。戦争という巨大な事業を動かすための、財務責任者(CFO)に過ぎなかった。

 妻のクララが、心配そうに私の肩に手を置いた。

「あなた、顔色が紙のようですわ」

「……クララ、私は大きな間違いを犯したのかもしれない」

「いいえ」彼女は静かに首を振った。「あなたは、私たちを守ってくれました。それだけが真実です。たとえ、そのために何を犠牲にしたとしても」

 彼女の言葉は、慰めであると同時に、私の罪を容赦なく突きつけていた。私は、家族と、この国に残る同胞たちの安全という、たった一つの目的のために、ヨーロッパ全土を破滅の淵へと追いやる手助けをしている。私の個人的な善意が、世界規模の悪の触媒となっている。

 私は、窓の外の暗闇を見つめた。あの闇の向こうで、何百万もの人々が、私が設計した「平和」の裏で進む、戦争の準備に気づかずに眠っている。

 そして、その戦争が始まった時、彼らの命の値段は、私の報告書の中の、ただの数字となって計上されるのだろう。

 黄金の檻は、もはや私個人を閉じ込めるものではなかった。それはドイツという国境を越え、ヨーロッパ全土を覆い尽くそうとする、巨大な罠そのものだったのだ。

(中巻・第一章 了)

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