雨傘はお見通し

中里朔

おばあちゃんの考査

 定時を過ぎた辺りから雨は降りだした。

 賑やかだったオフィスも、帰宅を急ぐ者たちが去って行き、小一時間後に残っているのは二人だけになった。

 帰り支度を終えた及川おいかわ隼人はやとは、暗い雲に覆われた外の様子をうかがう。そして、まだパソコンに向かい合っている宮野みやの真紀まきに声をかけた。

「まだ降ってるね」

 宮野はキーボードを打つ手を止めて、ちらりと窓のほうを見てから「傘はあるんですか?」と及川に聞く。

「ああ、ロッカーに置きっぱなしの傘がある。宮野は持ってるの?」

「持ってないです。雨が降るなんて思わなかったから……」

 及川は誰もいないオフィスを見渡してから、少し迷うそぶりを見せた。

「それなら……、駅まで一緒に入っていく?」

 及川の申し出に、宮野は一瞬動きを止めたが、すぐに「ありがとうございます。でも、私まだやることあるし、終わるまでにはきっと雨も止みますよ」と笑顔で答えた。

 心残りな表情を浮かべながらも、宮野が向けた微笑ほほえみを推し量ったのか、強く勧めることはしなかった。

「そっか……。じゃあ、俺はこれで」

「はい。お疲れさまでした」

「お疲れさま。あまり遅くならないようにな」

「わかりました」


 ひとりきりになった宮野は、小さくため息をいた。先輩の及川とは、良い雰囲気ではあるけれど、今一つ踏み出せないでいる。高校時代の失恋が、いまだに尾を引いているようだ。


 雨は降り続いている。給湯室で淹れたコーヒーを持って席に着き、口に含んだところでオフィスの扉が開いた。顔を覗かせたのは及川だった。

「あれ、どうしたんですか?」

 及川は手にしていたビニール傘を、宮野の机の脇に置く。

「コンビニへ寄ったついでだ。帰る時に降ってたら使って」

 それだけ言うと、及川はすぐに退出していった。

 宮野はすぐに片付けをして、傘を手にオフィスを飛び出した。急いでエレベーターに乗り、及川のあとを追って階下へ降りる。建物を出てから降りしきる雨の街を見渡してみたが、及川の姿を見つけることはできなかった。

 宮野は肩を落とし、バッグの中から花柄の折り畳み傘を取り出そうとして、その手を止めた。及川に渡されたビニール傘をパッと開くと、雨に濡れたインターロッキングの側道を軽やかに歩き出す。


 *


 高校生の時、付き合い始めたばかりの彼氏に別れを告げられてしまった。理由はよくわからない。彼は付き合うまでの駆け引きを楽しみたかっただけなのだろうか。部屋で泣き伏していた私を、同居していたおばあちゃんが慰めてくれた。

 両親は共働きで忙しく、幼少時から世話をしてくれていたのは母方の祖母だった。

 好きになった人の本音が知りたい。そう訴える私に、おばあちゃんは優しく語りかけた。

「真紀ちゃん。それならな、考査にかけてみたらいい」

「考査?」


 恋愛に憶病になってしまった私は、おばあちゃんの妙案を試す機会がないまま卒業し、都会へ出て就職した。教わった通りに傘が必要になる場面など、そうそうタイミングよく起こるわけがないと思っていたけれど――。

 気になっていた先輩は、素っ気ないふりをしながら、いつも私のことを気にかけてくれる。おばあちゃんの言う『考査』を試してみたところ、彼の本音を引き出すことができた。その日を境に、私も心を開くようになり、先輩との距離は次第に縮まっていった。

 半年ぶりに実家へ戻ったのは、結婚の報告を兼ねて、おばあちゃんにもお礼を言おうと思ったからだ。母から電話で聞いてはいたけれど、この一年ほどで認知症がだいぶ進行しているとのこと。顔を合わせても私の名前すら思い出してもらえない。惆然ちゅうぜんとしながらも、教わった考査のおかげで好きな人ができたのだと伝えてみた。おばあちゃんはぽかんとした顔で私を眺めていたが、話を聞き終えると嬉しそうに、くしゃっと破顔させた。

「そうかい。やっと本音がわかったのかい。今度は泣かずに済んでよかったねぇ」

「おばあちゃん、あの時のこと憶えてるの?」

 記憶についての返事はなかったものの、私も当時を思い返して「そんなこともあったね」と二人して笑った。

「本当に、よかったねぇ」

 笑顔が見られたのは、それが最後だった。


 軒先に、一本の傘が広げて置かれていたそうだ。

 雨が降ったわけでもないのに。

 あるじがいなくなった祖母の部屋は、高校生だった私が見ていた景色となにも変わらない。まるで時間が止まっているようだ。部屋の隅に傘があった。手に取ってみると、布地は色褪せて所々が擦り切れ、錆びも浮いている。

 あの日に聞いた考査の話は、祖父と出会った時の逸話だったのだろうか。

「言葉には出さなくてもなぁ、本音というのはおこないに現れるもんだ。心の内を知りたいのなら駆け引きも必要だよ。真紀ちゃんの雨傘がちゃんと教えてくれる」

 おそらく、おばあちゃんもこの傘を利用したに違いない。


 ――そうかい。やっと本音がわかったのかい。今度は泣かずに済んでよかったねぇ。

 ありがとう、おばあちゃん。私も幸せになるよ。


 ――本当に、よかったねぇ。





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雨傘はお見通し 中里朔 @nakazato339

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