第5話 平穏のための休息と、孤独の観測

 学園に戻ってからの数週間、ロゼリアは完璧な防御戦略を続行した。ユリウスへの『凡庸化』、ライナスへの『鉄壁の令嬢』、エドガーへの『冷徹な公僕』。その全てが成功しつつあったが、彼女の精神は限界に近づいていた。


 平穏を勝ち取るための『努力』が、こんなにも疲れるものだとは。


「はぁ……婚約者失格の烙印さえ押されれば、私は自由になれるのに」


 誰にも見られないことを確認し、ロゼリアは自室の椅子に深く沈み込んだ。プラチナブロンドの髪を乱暴にかき上げ、テーブルに広げた『傾向と対策』の紙を見つめる。


『現状:五人との接触回避は概ね成功。ただし、回避行動が「謎」と誤解され、関心度が上昇している模様』。


 ロゼリアは、この矛盾に強い疲労を覚えた。彼らを遠ざけようとすればするほど、彼らは彼女を『何か大きな秘密を抱える、孤独で賢い女』だと深読みしていく。


 その中で、唯一「凡庸」として平穏を謳歌しているはずのリリアン・アロンドの姿が脳裏に浮かんだ。


 ロゼリアは翌日、学園のテラス席で、敢えてリリアンの様子を遠くから観察した。


 リリアンは友人たちに囲まれ、屈託のない笑顔を見せていた。彼女の周りだけが、柔らかな光に包まれているようだ。


「……彼女は、本当に悪意がないのね」


 リリアンが話しているのは、流行のアクセサリーや、最近人気の店のことばかりだ。かつて、王太子や攻略キャラたちが熱狂的に愛した『ヒロイン』の本質は、ただの無邪気で善良な一般人だ。


 そのリリアンに、エドガーやユリウスが近づく様子はなかった。彼らはそれぞれの公務や研究に集中しており、リリアンは完全に物語の端役と化していた。


『戦略は成功している。彼らはリリアン嬢に興味を持っていない』


 ロゼリアは安堵した。しかし、同時に虚無感も覚える。


「なぜ、私はこんなにも必死に他人事でいようとしているのかしら」


 自分は、リリアンよりもずっと賢いのに、人見知りという病と過去のトラウマのせいで、他人と関わること、そして自分の才能を表に出すことを恐れている。その結果、誰も見ていない場所で、たった一人、完璧という名の鉄壁を張り続けている。


 その孤独なロゼリアの姿を、学園の屋上から双眼鏡で観察している影があった。


 **情報屋シリル(ジェットブラック)**だ。彼は、ロゼリアがリリアンを遠くから観察する姿を見て、口元を歪めた。


「ふむ。王太子の婚約者でありながら、影から伯爵令嬢を監視している。しかも、その表情は深い孤独だ」


 シリルは、ロゼリアの行動には「金になる裏の理由」があるという直感を強めていた。彼は、ロゼリアの『完璧な悪役令嬢の仮面』と『孤独な素顔』の間に、巨大な秘密の存在を感じ取った。


『傾向と対策No.4:シリル(情報屋)への対処法は「利益がない」と思わせること』だったが、ロゼリアの「秘密を隠す努力」そのものが、シリルにとって最大の「利益」となってしまっていた。


 ロゼリアは、シリルが関心を抱いていることに気づかない。彼女が知っているのは、自分はもう限界だということだけだ。


『もう、正面から動くのは嫌。誰か、私の代わりに王太子殿下との婚約破棄に繋がる、小さな情報を流してくれないかしら』


 ロゼリアは疲労から、最も危険な男である情報屋シリルの存在を、「利用価値のある駒」だと認識し始めていた。平穏を求めるために、最も平穏を乱す存在に接触するという、新たな、そして決定的な誤算が、静かに幕を開けようとしていた。

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