第17話 Canon perpetuus(カノン・ペルペトゥウス)ー手離しのカノン

綾先輩の告白と、Σの楽譜が粉々に破り捨てられた、あの薄暗い音楽準備室での出来事。

あの日以来、私と詩織さんは、言葉を交わさずとも、互いが同じ重りを足首に付けられて、息苦しい水底を歩いているような、そんな感覚を共有していた。


綾先輩の「安全改変」による練習は、もはや、私たちの心を完全に支配していた。彼女の過去を知ってしまった今、その、あまりにも頑なな「制御」への執着が、彼女の深い傷から生まれた、悲痛な防衛本能なのだと、理解はできた。

だが、理解できることと、受け入れられることは、まったく別の話だった。

歌うたびに、私たちの魂は、決められた軌道の上を、一ミリも狂うことなく、滑走させられている。そこには、自由も、予測不可能な喜びも、奇跡のような共鳴も、存在しない。ただ、安全で、無菌で、そして、ひどく空虚な音が、そこにあるだけだった。


「――もう、無理だよ」


その日、川沿いの、寂れた公園のベンチで、私は、ついに、そう呟いていた。練習後、どうしても、あの息の詰まる音楽室から、まっすぐ家には帰りたくなくて、私たちは、ほとんど無意識に、ここまで二人で歩いてきた。


「綾先輩の歌じゃ、私たちは人形だよ。ううん、ただの人形なら、まだいい。スコアを出すためだけに、心まで操られる、そんな傀儡……」


私の、弱音とも、怒りともつかない言葉に、詩織さんは、静かに頷いた。

「……叔父さんのメモにあった言葉、『手離し』……」

彼女は、自分の膝の上で、ぎゅっと拳を握りしめながら、言った。

「私たちで、見つけるしか、ないんですね。綾先輩に、逆らうことに、なったとしても」


その瞳には、以前のような、怯えの色はなかった。そこにあるのは、静かだが、決して揺らぐことのない、覚悟の光だった。

「Σに頼らずに、勝ちたい」

私は、言った。その言葉は、自分でも驚くほど、強く、はっきりと、口から出ていた。

「ううん、勝つとか、そういうことじゃない。……私たちの、本当の歌を、歌いたいんだ」


私たちは、顔を見合わせた。

もう、後戻りはできない。私たちは、綾先輩が作った、安全な鳥籠の中から、自らの意志で、飛び出すことを、選ぶのだ。


「……あのメロディ、覚えてる?」

私が言うと、詩織さんは、こくりと頷いた。

音楽準備室で、ほんの数十秒だけ、二人で歌った、あの「遅延カノン」。楽譜は、もうない。だが、その、胸が締め付けられるような旋律と、互いの声が、決して交わらず、寄り添い続けた、あの不思議な感覚は、私たちの身体に、まだ、鮮やかに残っていた。


私たちは、ハミングで、その旋律を、記憶の底から、手繰り寄せ始めた。

最初は、おそるおそる。やがて、確信を持って。

川のせせらぎと、遠くで響く電車の音だけが、私たちの伴奏だった。


だが、歌いながら、私は考えていた。

ただ、このメロディを再現するだけでは、ダメだ。それでは、Σの作ったものに、頼ることになってしまう。叔父さんのメモにあった、「本当の安全」には、たどり着けない。

私たち自身の、答えを見つけなければ。


『手離し』

その、言葉の意味を、私は、必死に、考えていた。

そして、不意に、一つの光景が、脳裏に浮かんだ。

――詩織さんの、恐怖に満ちた、瞳。

私が、彼女の肩に、触れようとした、あの日のこと。


そうだ。

Affectionの極致は、「触れる」こと。そして、Σが目指した「抱擁」へと繋がっていく。

だとしたら。

その、逆を行けばいいのだ。


「……ねえ、詩織さん」

私は、歌うのをやめて、彼女に提案した。

「この曲の、一番、盛り上がるところ。クライマックスで……私たちは、手を、繋がない。むしろ、繋ぎかけた手を、そっと、離すっていうのは、どうかな」


「え……?」

詩織さんは、驚いたように、目を見開いた。


「このカノンが、一番、切なく響いて、互いの声と、ひとつになりたいって、強く願う、まさにその瞬間に。私たちは、物理的に触れ合う。ううん、触れ合う寸前まで、手を、近づける」

私は、興奮で、少し早口になっているのを感じながら、続けた。

「でも、決して、触れない。そして、最後の音が消える、その静寂の中で、私たちは自らの意志で、その手をゆっくりと下ろしていくの。……『手離し』を、そのまま、所作にするんだ」


それは、あまりにもそのままで、そして突飛なアイデアだった。

音楽の解決を、音ではなく身体の動きで、それも、「離れる」という否定的な動きで表現するなんて。


だが、詩織さんの瞳が、みるみるうちに、輝きを増していくのを、私は見た。

「手を……離す……」

彼女は、うわ言のように、その言葉を繰り返した。

「それなら……私でも、できるかもしれない。触れることの怖さが……解放される喜びに、変わるから……!」


「そうだよ!」

私は、彼女の手を、思わず掴んでいた。

「綾先輩の『安全改変』みたいに、Affectionを、無理やり、冷却するんじゃない。私たちの意志で、もっと穏やかで温かいCohへと……信頼へと、転換させるんだ!」


それは、逆転の発想だった。

Σの『抱擁のカデンツァ』への、そして、綾先輩の『安全改変』への、私たち二人だけの、アンサー。

私たちは、それを、「手離しカノン」と名付けた。


夕日が、川面を、オレンジ色に染めていた。

私たちは、ベンチから立ち上がると、どちらからともなく、向かい合った。

そして、ハミングをしながら、ゆっくりと、その所作を、試してみた。

旋律が、高まっていく。

互いの手が、まるで、磁石のように、引き寄せられていく。

指先が、触れるか、触れないか、その数ミリの距離。空気の、微かな振動だけが、互いの熱を伝えている。

そして、最後の静寂。

私たちは、ゆっくりと息を吐きながら、その手を下ろした。


何も、解決していない。

これはまだ、私たちの、あまりにもささやかで、未熟な反抗の始まりに過ぎない。

だが、その瞬間、私の心は、久しぶりに澄み渡っていくのを感じていた。

鎖から、解き放たれた、本当の自由。


「……行けるかな、私たち。これで」

私は、夕日を見つめながら、呟いた。


隣で、詩織さんが、静かに、しかし、力強く答えた。

「……行けます。これは、私たちの歌ですから」


その声には、もう、迷いはなかった。

私たちの、二人だけの、本当の歌が、今、この場所で、確かに、生まれたのだ。

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