第18話 con moto e sostenuto(コン・モート・エ・ソステヌート)ー踏み込む勇気、留まる勇気
私たちだけの秘密だった「手離しカノン」を、誰かに見せなければならない時が、来た。
このまま、綾先輩の「安全改変」という名の鳥籠の中に、甘んじているわけにはいかない。この歌の持つ可能性を、私たち以外の誰かに、せめて、一人でもいい、理解してもらわなければ、地区大会のステージに、この歌が響くことは、決してないのだから。
私たちは、綾先輩が会議で不在になる、ほんのわずかな自主練習の時間を選んだ。
そして、一番、理解してもらえないであろう二人の前に、私たちは並んで立った。
玲奈と、凛。
スコアを最大化することに、もっとも貪欲で、そして、私たちの「手離し」の思想とは、もっとも対極にいる、二人を。
「――少しだけ、私たちの歌を、聴いてもらえないかな」
音楽室の隅で、ストレッチをしていた二人に、私は、意を決して、声をかけた。
玲奈は、あからさまに、面倒くさそうな顔をした。
「何よ、今更。あんたたちの、あの、地味な歌でしょ? そんなの聴いてる時間があったら、私は、あと一回でも多く、綾先輩のアレンジを、身体に叩き込みたいんだけど」
「合理的じゃないわね」
隣で、凛が、平坦な声で付け加える。
「現時点で、最も、スコア期待値の高い綾先輩の戦術を、覆すだけのデータが、あなたたちにあるの?」
「データは、ない」
私は、まっすぐに、二人を見つめ返した。
「でも、私たちの心には、ある。スコアのためだけの歌は、もうしたくないっていう意志が」
その言葉に、玲奈の眉が、ぴくりと動いた。
面白そうじゃない、と、彼女の瞳が、そう言っているのがわかった。彼女は、退屈を、何よりも嫌う。
私と詩織さんは、音楽室の中央に進み出た。他の部員たちも、何事かと、遠巻きに、私たちを見守っている。
私たちは、ハミングで、あの「手離しカノン」を、歌い始めた。
誰かに聴かせるのは、初めてだった。二人だけの、秘密の、祈りのような歌。それが今、他者の視線という、厳しい光に晒されている。
心臓が、早鐘のように鳴っている。
だが、詩織さんの、深く温かいアルトが、私の声に寄り添ってきた瞬間。
私は、すっと目を閉じ、自分を取り戻した。
大丈夫。これは、私たちの歌だ。
旋律が、高まっていく。
私たちは、ゆっくりと手を、互いの方へと、伸ばしていく。
指先が、触れるか、触れないかの、その数ミリの距離。
そして、最後の静寂。
私たちは、ゆっくりと、息を吐きながら、その手を下ろした。
解放と、そして、安堵の瞬間。
歌い終えても、しばらく誰も何も言わなかった。
ただ、窓から差し込む西日が、私たちの足元に、長い影を落としているだけだった。
最初に、その沈黙を破ったのは、やはり玲奈だった。
「……何、これ」
その声には、軽蔑の色が、あからさまに、浮かんでいた。
「地味すぎない? 最後、一番盛り上がるところで、何もしてないじゃない。これじゃ、Affは、絶対に、上がらないわよ」
「合理的じゃない」
凛が、同意するように、頷いた。
「同期指標の加点を、自ら放棄している。終止点での持続同期は、得点を稼ぐための、セオリー中のセオリー。それを捨てるなんて」
だが、その時だった。
「……でも」
それまで黙っていた、メゾの梢先輩が、ぽつり、と呟いた。
「……なんだか、見ていて、苦しくなかった。……すごく、優しい歌だなって、思った」
その言葉に、真帆先輩も、複雑な表情で静かに頷いている。
その、予期せぬ援護射撃に、玲奈は、カッとなったようだった。
「優しさで、大会に勝てるわけ!? 甘ったれないでよ!」
彼女は、凛の方を、ぐいと向いた。
「凛! 見せてやろうよ、あんたたちとは違う、本物の『昂奮』ってやつを!」
そして、二人は、私たちの前に、立ちはだかるようにして、歌い始めた。
綾先輩の「安全改変」の中から、もっとも、Aff値が上がりやすい、情熱的なフレーズ。
その歌声は、確かに、圧巻だった。技術的に、完璧。そして、聴いているこちらの心を、無理やり、ねじ伏せるような、暴力的なまでの、熱量。
玲奈のAff値が、ぐんぐんと、上昇していくのが、目に見えるようだった。
彼女は、さらに、踏み込んだ。
楽譜にはない、アドリブ。彼女は、凛の腕を、掴もうと、手を、伸ばしたのだ。物理的な接触で、スコアを、極限まで、跳ね上げるための、禁じ手。
その、玲奈の手が、凛の腕に、触れる、寸前。
――凛が、動いた。
いや、違う。
――凛が、動かなかった、のだ。
彼女は玲那の、その暴走する感情の波に、乗らなかった。
流されなかった。
彼女は、ただ、その場に、根が生えたかのように、ぴたり、と、静止した。
それは、彼女の、もっとも得意とする、「合理的」な判断。プログラムされていない、感情のノイズは、減点対象にしかならない。だから、動かない。
それは、彼女なりの、選択的遮断。
――留まる、勇気。
音楽が、ぐしゃり、と、不協和音を立てて、崩れた。
玲奈は、差し出した手を、どうしていいかわからないまま、宙に浮かせている。その表情は、驚きと、羞恥と、そして、裏切られたかのような、怒りに、歪んでいた。
「……何で……!」
玲奈が、絞り出すような声で、凛を、睨みつけた。
「あそこで、合わせれば、もっと、行けたのに……!」
「違う」
凛は、冷静に、自分の手を見つめながら、言った。
「あれは、ただの、暴走。制御を失ったノイズは、スコアにならない」
そして、彼女は、静かに顔を上げると、私と詩織さんの方を、見た。
「……あなたたちの『手離し』は、非合理的だと、思った」
彼女は、続けた。
「でも、今の私たちのは……もっと、ダメなものだった。……ただ、醜いだけだった」
その、静かな、敗北宣言。
玲奈は、何も、言い返せなかった。彼女は、初めて、知ったのだ。踏み込むことだけが、勇気ではないことを。時には、留まることの方が、ずっと難しい勇気なのだということを。
私たちは、彼女たちに勝ったわけではなかった。
ただ、私たちの、ささやかな反抗が、あの、もっとも、硬い岩盤のようだった二人の心に、ほんの、かすかな、ひびを入れることには、成功したのかもしれない。
凛が、自分の手を、まるで、見慣れないものでも見るかのように、握りしめ、そして、開いている。
その、ぎこちない仕草を見ながら、私は、思った。
強さ、というものには、きっと、一つだけでは、ないのだ。たくさんの、違う種類の、強さが、あるのだ、と。
そして、私たちは、今、その、ほんの入り口に、立ったばかりなのだった。
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