第16話 Recitativo(レチタティーヴォ)ー綾の告白
音楽準備室の、淀んだ空気が、まるで固まってしまったかのようだった。
綾先輩の瞳は、私たちが手にしていた、たった一枚の五線譜に、まるで呪縛されたかのように、縫い付けられていた。その表情は、私が今まで見た、どんな彼女とも違っていた。冷静な指揮者の顔でも、厳しい指導者の顔でもない。それは、忘れたはずの亡霊に、不意に、目の前で出会ってしまった人間の、剥き出しの恐怖と、深い苦悩に満ちた顔だった。
「答えなさい、千佳。月島さん」
彼女の声は、かろうじて平静を装ってはいたが、その下に隠された激しい動揺が、微かな震えとなって、私の鼓膜を打った。
「その楽譜は、どこで手に入れたの。誰に、見せられたの」
私は、何も答えられなかった。詩織さんの叔父さんのこと、Σの可能性。その、あまりにも重すぎる真実を、今、この場で、口にしていいものか、わからなかった。私の沈黙を、綾先輩は、最悪の形で、解釈したようだった。
「……まさか、聖アガタのスパイとでも、接触したの? それとも、ネットの、黒い市場で、手に入れたとか……? やめなさい、そんなものに関わったら、あなたたちの未来が、めちゃくちゃになる……!」
その、必死な、ほとんど懇願に近いような声を聞いて、私は、これ以上、黙っていることはできない、と思った。
だが、私より先に、口を開いたのは、詩織さんだった。
「――これは、私の、叔父のものです」
その、静かな、しかし、凛とした声に、綾先輩の言葉が、ぴたりと止まった。
詩織さんは、一歩、前に出ると、綾先輩の目を、まっすぐに見つめた。
「二年前に亡くなった、私の叔父の、遺品の中から、見つけました。叔父は、大学で、Σの研究グループに……おそらく、関わっていました」
「……あなたの、叔父……?」
綾先輩は、まるで、信じられないものでも見るかのように、詩織さんの顔を、まじまじと見つめた。そして、何かを、思い出したかのように、はっと、息を飲んだ。
「……月島……。そう、あなたの名前……。まさか、あなたは……あの、月島准教授の……」
「ご存じ、なのですか?」
綾先輩は、答えなかった。
だが、その表情が、すべてを物語っていた。深い、深い悲しみと、そして、どうしようもない、悔恨の色。彼女は、詩織さんの叔父さんを、知っていたのだ。
「……そう。そうだったの……」
綾先輩は、うわ言のように、そう呟くと、壁に、もたれかかるようにして、ずるずると、その場に座り込んだ。その姿は、あまりにも弱々しく、指揮台の上で、常に、絶対的な存在として君臨していた彼女の姿とは、到底、結びつかなかった。
「……私が、大学四年の時だった」
彼女は、誰に言うでもなく、ぽつり、ぽつりと、語り始めた。それは、彼女が、ずっと、心の奥底に、たった一人で、封印してきた、告白だった。
「私には、親友がいた。私なんかとは、比べ物にならないくらいの、天才ソプラノ。彼女の名前は、沙月」
沙月。
その名前を口にする時、綾先輩の声は、微かに、潤んでいた。
「彼女は、才能に溢れ、そして、あまりにも、無垢だった。歌の、もっと向こう側にある、誰も見たことのない景色を、ずっと、追い求めていた。……そして、彼女は、出会ってしまったの。あなたの叔父さんが、主導していた、Σの研究グループに」
綾先輩は、語った。
あの、凍えるような冬の夜のこと。沙月さんが、禁断の好奇心から、「抱擁のカデンツァ」の断片を、歌ってしまったこと。そして、目の前で、「越境」し、その心が、二度と元には戻らない、深い傷を負ってしまったことを。
「あなたの叔父さんは、悪人ではなかった。と、思う」
綾先輩は、床の一点を見つめながら、言った。
「彼は、純粋な、研究者だった。人の心を、音楽で、本当に救えると、信じていた。でも、彼の生み出した技術は、あまりにも、危険すぎた。人の心が、その力に、耐えられなかったのよ。沙月の事故の後、彼は、すべての研究を、自ら、封印した。そして、表舞台から、姿を消したわ……。まさか、亡くなっていたなんて……」
すべてが、繋がった。
綾先輩の、安全への、異常なまでの執着。Σへの、激しい拒絶反応。そして、「安全改変」という、彼女なりの、必死の防衛策。そのすべてが、親友を、その目の前で、失いかけた、深い、深い、トラウマから、生まれていたのだ。
「……だから、お願い」
綾先輩は、顔を上げた。その瞳は、涙で、濡れていた。
「もう、これ以上、Σに関わらないで。あなたたちを、沙月のように、したくない。私と同じ目に、遭わせたくない。私は、あなたたちを、守りたいだけなのよ……」
その、悲痛な叫び。
それは、指揮者としてではなく、一人の、傷ついた人間としての、魂の叫びだった。
私は、何も、言えなかった。彼女の、あまりにも重い過去を知ってしまった今、一体、何が言えるというのだろう。
綾先輩は、ゆっくりと立ち上がると、私の手から、あの、一枚の楽譜を、そっと、抜き取った。
そして、それを、まるで、呪われたものでも扱うかのように、細かく、細かく、破り捨てた。
黄ばんだ紙片が、ひらひらと、床に舞い落ちる。
叔父さんが残した、最後の希望だったかもしれない、「遅延カノン」が、私たちの目の前で、粉々に、消えていく。
「このことは、誰にも、言わないこと」
綾先輩は、涙を拭うと、いつもの、指揮者の顔に戻って、私たちに、最後の命令を下した。
「そして、二度と、あの歌を、口にしないこと。いいわね」
その、有無を言わさぬ、絶対的な拒絶。
私と詩織さんは、ただ、黙って、頷くことしか、できなかった。
音楽準備室の、薄暗い静寂の中で、床に散らばった、Σの断片だけが、私たちが見てしまった、深すぎる秘密の唯一の証人として、静かに横たわっていた。
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