第15話 Attacca(アタッカ)ー禁曲は鳴り始めた
**(視点:高坂千佳)**
真帆先輩と梢先輩の間に生まれた、静かな亀裂。
それは、水面に落ちた一滴のインクのように、私たちの合唱団全体に、ゆっくりと、しかし確実に、広がっていった。綾先輩の完璧な「安全改変」という名の城壁に、内側から、最初のひびが入った瞬間だった。これまで、絶対的なものだと信じてきた綾先輩の理論に、皆が、かすかな疑念を抱き始めていた。
そんな、不穏な空気が満ちる中で、私と詩織さんの、二人だけの秘密の探求は、続いていた。
私たちは、練習の前後、わずかな時間を見つけては、音楽準備室の片隅で、あの黒いノートと、一枚のメモを、何度も、何度も、読み返していた。
『――本当の安全は、抑制(サプレス)の中にはない。それは、自らの意志による、解放(リリース)の中にのみ、存在する』
叔父さんの、その言葉。
頭では、理解できる。だが、それを、どうやって、歌として、実践すればいいのか。その具体的な方法が、私たちには、まったくわからなかった。
「『手離し』って……やっぱり、私が、前にやった、あれのことなのかな」
ある日の放課後、私は、山と積まれた打楽器の陰で、詩織さんに、小さな声で尋ねた。
「昂奮のピークで、あえて、視線を外すこと。繋がりを、断ち切ること」
「たぶん、それも、一つなんだと思います」
詩織さんは、真剣な眼差しで、ノートのページを指差した。
「でも、叔父さんのメモには、『解放(リリース)』って書かれています。断ち切る、っていう、マイナスの行為だけじゃなくて、もっと、積極的な……何かがあるような気がするんです」
その時だった。
詩織さんの指が、ノートのあるページで、ぴたり、と止まった。そこには、走り書きのような、乱れた文字で、いくつかの単語が、矢印で結ばれている。
『逆循環終止 → 渇望(Desire)の最大化 → 越境(Transcendence)リスク』
そして、その下に、青いインクで、追記するように、こう書かれていた。
『対抗策(Countermeasure):『遅延カノン(Delayed Canon)』による、意図的な、共鳴りの『ズレ』の生成。解決への期待を、共有しつつ、その到達点を、個々の意志に、委ねる』
遅延カノン。
聞いたことのない、音楽用語だった。
「……これ、なんだろう」
私がそう呟くと、詩織さんは、まるで、何かを思い出したかのように、はっと顔を上げた。
「……叔父の部屋に、あったんです。段ボールの中に、一枚だけ、ポツンと……」
彼女は、自分のスクールバッグの中から、大切そうに、折り畳まれた一枚の五線譜を取り出した。それは、叔父さんのメモと同じ、黄ばんだ、古い紙だった。
広げられた楽譜に書かれていたのは、信じられないほど、シンプルな、二声のカノンだった。だが、その構造は、奇妙だった。追いかける方の声部が、通常よりも、一拍、長く、引き伸ばされている。その、たった一拍の「遅延」が、ハーモニーに、形容しがたい、不思議な浮遊感と、そして、切ないほどの、解決への渇望を、生み出していた。
「……歌ってみない?」
ほとんど、無意識に、私の口から、その言葉がこぼれ落ちた。
それは、危険な誘いだった。この楽譜が、Σに繋がるものである可能性は、極めて高い。だが、私たちの好奇心と、そして、この息苦しい状況を打破したいという切実な願いが、恐怖を上回っていた。
詩織さんは、こくり、と、力強く頷いた。
私たちは、音楽準備室の、一番奥。誰も来ない、コントラバスのケースの陰に、身を寄せ合った。
IDSはもちろん、ない。私たちを監視する、機械の目は、どこにもない。
あるのは、西日に照らされた埃が、静かに舞う、薄暗い空気と、互いの、緊張した呼吸の音だけ。
私が、最初のメロディを、そっと、ハミングで歌い始める。
それは、どこか懐かしいような、胸が締め付けられるような、美しい旋律だった。
そして、一拍、遅れて。
詩織さんの、深く温かいアルトが、追いかけてくる。
その瞬間、私は、今まで一度も感じたことのない感覚に襲われた。
それは、綾先輩の言う、「一体化」とは、まったく違うものだった。
私たちの声は、決して、完全には、重ならない。常に、一拍分の「ズレ」が、そこには、存在する。だが、そのズレこそが、互いの声を、もっとも、美しく響かせているのだ。
まるで、二つの惑星が、互いの引力に引かれながら、決して衝突することなく、絶妙な距離を保って、同じ軌道を、回り続けているかのように。
解決したい。
あなたの声と、完全に、一つになりたい。
その、切ないほどの渇望が、胸の奥からこみ上げてくる。
だが、同時に、この永遠に続くかのような、追いかけっこの心地よさに、いつまでも浸っていたいとも思うのだ。
これが、「遅延カノン」。
これが、叔父さんの言っていた、「個々の意志に委ねる」ということの、意味なのだろうか。
一体になるか、ならないか。その選択権は、常に歌っている私たち自身の手の中にある。
――その時だった。
「――何をしているの」
氷のように、冷たい声。
私たちは、びくり、と、肩を震わせた。
振り返ると、そこに立っていたのは、能面のような、無表情の綾先輩だった。いつから、そこにいたのだろう。彼女は、私たちの歌を、どこまで聴いていたのだろう。
彼女の視線は、私たちが手にしていた一枚の楽譜に釘付けになっていた。
その表情が、みるみるうちに変わっていく。驚き、困惑、そして、深い絶望と、恐怖の色へ。
「……その楽譜は、どこで、手に入れたの」
その声は、微かに、震えていた。
「まさか……それは、『抱擁のカデンツァ』の……プロトタイプ……」
禁曲は、鳴り始めてしまった。
私たちの、ほんの、ささやかな好奇心が、決して開けてはならない、パンドラの箱を、開けてしまったのだ。
綾先輩の、血の気の引いた顔を見ながら、私は、これから、何か、とてつもなく、恐ろしいことが、始まってしまう予感に、ただ、立ち尽くすことしか、できなかった。
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