第8話 deceptive cadence(ディセプティブ・ケイデンス)ー逆循環終止の噂

綾がΣの断片を引き出しの奥に封印した、まさにその翌日。

その噂は、まるで計算されたかのように、私たちの耳に届いた。


「ねえ、聞いた? 去年の全国大会で準優勝だった、聖アガタ女学院の話」


昼休みの音楽室で、パート練習の準備をしていた私たちに、情報通で知られるメゾの梢先輩が、声を潜めて切り出した。彼女はスマホの画面を私たちに見せながら、興奮した様子で続ける。


「次の県大会で、新曲を発表するらしいんだけど……その曲、Σのモチーフを引用してるんじゃないかって、SNSでちょっとした騒ぎになってるの」


その単語が出た瞬間、音楽室の空気が、ぴり、と張り詰めた。

Σ。

それは、私たち合唱の世界において、公然のタブー。誰もがその存在を知りながら、決して口にしてはならない名前。


「引用って……それ、規約違反じゃないんですか?」

一年生の玲奈が、怖れと好奇心の入り混じった声で尋ねる。


「そこが、グレーなのよ」

梢先輩は、専門家のような口調で解説を始めた。

「Σの曲そのものを演奏するのは、もちろん即失格。でも、彼の特徴的なメロディラインや和声進行――例えば、『逆循環終止(インヴァース・ドミナント・カデンツァ)』みたいな、数小節のモチーフを、自作のアレンジに『引用』するだけなら……前例がないわけじゃない。監察官の判断次第だけど、芸術的引用として黙認される可能性は、ゼロじゃないってわけ」


逆循環終止。

その、不穏で甘美な響きを持つ音楽用語を、私たちは初めて耳にした。

梢先輩が、スマホで、その解説記事を私たちに見せる。そこには、こう書かれていた。


『――通常の終止形が聴く者に解決と安堵を与えるのに対し、逆循環終止は、あえて解決を遅延、あるいは回避することで、聴く者の心に強烈な渇望感と、未解決な感情の昂ぶりを植え付ける。相互注視、同期呼吸、マイクロ微笑といった身体的トリガーと組み合わせることで、IDSのAffectionおよびObsession値を、短時間で爆発的に上昇させる効果が報告されている――』


「……すごい」

誰かが、ごくりと喉を鳴らした。

「そんな、魔法みたいな技が……」


「魔法、ねえ」

その時、黙って話を聞いていた凛が、冷ややかに口を挟んだ。

「合理的に考えれば、それはただの音響心理学的なトリックよ。人間の脳が持つ、予測と裏切りのメカニズムを利用した、一種のハッキング。魔法なんかじゃないわ」


「でも、そのハッキングで、大会に勝てるなら?」

玲奈が、挑戦的な目で凛に問い返す。

「私たちは、きれいごとを歌うためにここにいるんじゃない。全国に行くためにいるんでしょ? 聖アガタがそれを使うなら、私たちだって……」


「やめなさい」

その言葉を遮ったのは、アルトリーダーの真帆先輩だった。彼女の表情は、いつになく厳しく、冷たかった。

「規約のグレーゾーンに手を出すなんて、論外よ。私たちは、私たちのやり方で、正々堂々と音楽を作る。それだけ。この話は、これでおしまい」


その一喝で、その場の議論は強制的に終了させられた。

だが、一度投げ込まれた石が広げた波紋は、簡単には消えなかった。

『Σ』『逆循環終止』『勝つための技術』。

それらの言葉は、目に見えないウイルスのように、私たちの心の中に、静かに、しかし確実に、侵入し始めていた。


その日の練習で、私は、皆の歌声が、どこか変わってしまったのを感じていた。

これまで私たちが目指してきたのは、あくまで純粋なハーモニーの美しさだった。だが、今の皆の歌声には、それとは異質な、何か焦りのような、あるいは野心のような、ざらついた響きが混じっている。IDSの数値を、もっと、もっと上げなければ。ライバルに、負けていられない。そんな、無言の圧力が、音楽室の空気を満たしていた。


特に、玲奈と凛のペアの歌は、鬼気迫るものがあった。

彼女たちは、まるで噂の逆循環終止を自分たちなりに解釈し、再現しようとでもするかのように、フレーズの終わりを微妙に引き延ばし、互いの視線を、これまで以上に執拗に絡ませ合っていた。その歌声は、確かにパワフルだったが、どこか歪で、聴いているこちらの胸が、ざわざわと落ち着かなくなるような、不快な響きを持っていた。


壁のランプが、不安定に、蜜色と、そして、ごく微かな緋色との間を、いびつに行き来している。


「――違う」


その時、ずっと黙って指揮をしていた綾先輩が、ぽつり、と呟いた。

「それは、ただのノイズよ。感情の、汚泥。そんなもので、人の心は動かせない」


彼女は、指揮棒を置くと、静かに私たちの方に向き直った。その表情は、能面のように、一切の感情を消し去っていた。だが、その瞳の奥には、深い、深い失望の色が浮かんでいるのを、私は見逃さなかった。

彼女は、私たちの心の中に侵入してきた、Σというウイルスの存在に、誰よりも早く気づいていたのだ。


「今日の練習は、中止。全員、頭を冷やしなさい」

それだけを告げると、綾先輩は、私たちに背を向けた。

その背中が、ひどく孤独に見えた。彼女は、きっと一人で、何かとてつもなく大きなものと戦っている。それが何なのか、私たちにはまだ、知る由もなかった。


音楽室を出る間際、私は、詩織さんと目が合った。

彼女は、何も言わなかった。だが、その瞳は、雄弁に語っていた。

――先輩。私たち、どこに向かっているんでしょう。

その、答えのない問いが、重く、私の心にのしかかってきた。噂という名の、甘く危険な毒が、私たちの合唱団を、内側から、静かに蝕み始めている。そのことに、まだ、ほとんどの人間は気づいていなかった。

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