第9話 antiphonal(アンティフォナル)ーあなたはあなた、私は私
県大会予選の日、ホールに集まった私たちの間には、重く、ぎこちない沈黙が流れていた。
Σの噂がもたらした不協和音は、まだ私たちの間に、澱のように沈殿している。綾先輩が前回の練習を唐突に中止して以来、私たちは根本的な部分で、互いを、そして自分たちの歌を、信じきれなくなっていた。
「――余計なことは、考えないように」
ステージへ向かう直前、円陣を組んだ私たちに、綾先輩はそれだけを告げた。その声は、感情を一切排した、まるでメトロノームの刻音のように、正確で、無機質だった。
「今日の曲は、技術だけを問われる。音程、リズム、ハーモニー。それ以外、何もいらない。数値を追わないこと。観客に媚びないこと。ただ、楽譜通りに、音を置きなさい」
その指示は、私たちの混乱に対する、綾先輩なりの答えだった。
今日の自由曲は、セロトニン系の、極めて内省的で、構造の複雑な楽曲。感情の昂ぶりを誘発する要素は、どこにもない。Affectionの高得点を狙うことなど、到底不可能な選曲。先輩は、熱狂に浮かされた私たちに、冷水を浴びせることを選んだのだ。これは、大会であると同時に、私たちのための「浄化の儀式」なのだと、私は理解した。
ステージの照明が、白く、容赦なく私たちを照らしつける。
客席の顔は、見えない。ただ、そこに数多の意識が渦巻いていることだけが、肌で感じられた。
綾先輩の指揮棒が、静かに振り下ろされる。
歌が、始まった。
私の意識は、完全に、音の構造を捉えることだけに集中していた。これは、感情を繋げるための歌じゃない。精密な建築物を、声という素材で組み上げるための、知的な作業だ。
ソプラノの第一主題が、まっすぐな光の柱のように立ち上がる。そこへ、アルトの対旋律が、蔦のように絡みついてくる。メゾが、その隙間を埋める煉瓦のように、和音の基礎を固めていく。
私の隣で歌う美紀の声も、他の部員たちの声も、今は感情を持った誰かの声ではない。ただ、完璧な建築物を作り上げるための、固有の響きを持った「素材」のひとつとして、そこにあるだけだ。
壁のランプは、ほとんど青一色に染まっていた。Coh――集団信頼の指標だけが、静かに、しかし力強く、その数値を上げていく。Affの蜜色の光は、時折、淡く灯っては消えるだけ。
それで、よかった。
今は、それでいいのだと、私は思った。私たちは、一度、基本に立ち返らなければならなかった。人を繋げる前に、まず、音と、誠実に向き合うことを。
演奏が終わった時、客席からは、ぱらぱら、と、どこか戸惑ったような拍手が送られた。熱狂はない。興奮もない。ただ、「上手だった」という、知的な感嘆があるだけ。
ステージ袖に戻った時、玲奈が、悔しそうに唇を噛んでいるのが、視界の隅に映った。彼女は、この結果に満足できないだろう。観客の心を鷲掴みにするような、あの蜜色の快感を、彼女はもう知ってしまっているから。
結果発表を待つ間、私たちは、ホールの地下にある殺風景なリハーサル室に集められた。
綾先輩は、何も言わずに、真帆先輩に目配せをした。
「はい。全員、ペアと向き合って」
真帆先輩が、凛とした声で指示を出す。私たちは、少し戸惑いながらも、ステージでペアを組んだ相手と、一対一で向かい合った。私の前には、美紀が立っている。その表情は、どこか不安げだった。
「これから、後処置――『ペア解放宣言』を行います」
真帆先輩の声が、静かな部屋に響く。
「今日の曲では、残響酔いの心配は少ないでしょう。でも、どんな曲であれ、私たちは、ステージの上で、自分以外の誰かと、深く精神を同期させた。その境界線を、もう一度、自分の手で引き直すための、大切な儀式です」
私たちは、真帆先輩の指示に従い、目の前のパートナーと、そっと両手を取り合った。
美紀の手は、少し汗ばんでいて、ひんやりと冷たかった。ステージの上での緊張が、まだ残っているのだろう。その、生身の人間の感触が、私の指先から、じわりと伝わってくる。私たちは、確かに、繋がっていたのだ、と。
「いい? 私のあとに続いて」
真帆先輩は、一度、深く息を吸った。
そして、私たちは、互いの手を、静かに、離した。
その、指先が離れる瞬間の、名残惜しいような、それでいて、どこか解放されるような、不思議な感覚。
そして、全員で、声を揃えて、その言葉を口にした。
「――ここまで。あなたはあなた、私は私」
その言葉が、自分の口から発せられた瞬間。
すう、と、身体中の力が抜けていくのを感じた。まるで、きつく締められていたネジが、一本、緩められたかのように。
ステージの上で一体化していた意識が、ゆっくりと解きほぐされて、私、という個人の、本来あるべき輪郭の中へと、穏やかに収まっていく。そうだ。私は、高坂千佳だ。隣にいる美紀ではない。私たちは、違う人間で、違う心を持っている。それで、いいのだ。
「大げさな……」
どこかから、玲奈の、不満そうな呟きが聞こえた。
「今日の曲じゃ、残響酔いなんて起きないのに」
その声を、真帆先輩は聞き逃さなかった。
「そういう油断が、事故に繋がるの」
彼女は、玲奈を、厳しい、しかし、どこか諭すような目で見つめた。
「どんな曲でも、私たちは他人の心に、土足で足を踏み入れているのと同じなのよ。その自覚を持つための儀式。決して、忘れないで」
その時、私は、部屋の隅で、一人、静かにその儀式を終えた詩織さんの姿に気づいた。
彼女は、誰ともペアを組んではいなかったが、自分の胸の前で、そっと両手を合わせ、そして、ゆっくりと離す、という動作を、真剣な表情で行っていた。
やがて、予選通過校のリストが貼り出された。
『県立新設校 女子合唱団 セラフィータ』
その文字を、私たちは、どこか他人事のような気持ちで眺めていた。嬉しい、というよりも、安堵した、という方が近い。
帰り道、駅へと向かう雑踏の中で、不意に、詩織さんが私の隣に追いついてきた。
「あの……高坂先輩」
「うん? お疲れ様」
「今日の、あの……『あなたはあなた、私は私』って、いい言葉ですね」
彼女は、ぽつり、と、そう言った。その横顔は、いつになく、晴れやかな表情をしていた。
「私、あの言葉があるから、ここで歌える気がします」
その言葉に、私は、はっとした。
私にとって、あの宣言は、繋がりすぎた関係を「リセット」するための、いわば安全装置だった。
だが、彼女にとっては違うのだ。
繋がりそのものを恐れる彼女にとって、あの宣言は、「あなたは、決して、私に呑み込まれたりはしない」という、絶対的な安全の『保証』なのだ。
だから、彼女は、安心して、歌の世界に身を委ねることができる。
私たちは、違う人間で、違う心を持っている。
その、当たり前の事実を、改めて確認し、尊重し合うこと。
それこそが、私たちの歌が、決して暴走しないための、最後の、そしてもっとも大切な、命綱なのかもしれない。
詩織さんの横顔を見ながら、私は、そんなことを考えていた。
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