第7話 alea(アレア) ーΣの断片
その夜、綾は一人、大学の研究室にいた。
窓の外は、すでに深い闇に沈んでいる。蛍光灯の白い光だけが、壁一面を埋め尽くす膨大な資料の背表紙を、無機質に照らし出していた。音大卒業後も、彼女は大学院に進み、合唱薬理学の、特に安全運用プロトコルに関する論文を書き続けていた。セラフィータでの指導は、その実践データ収集の一環でもあった。
だが、今日は研究のためではなかった。
今のセラフィータには、何かが必要だった。技術的な壁、精神的な壁、その両方が、少女たちの前に高くそびえ立っている。それを打ち破るための、何か。インスピレーションの欠片でも見つからないかと、彼女は埃をかぶった大学時代の資料の箱を、ほとんど無意識に開けていた。
指先が、ざらりとした紙の束に触れる。古い楽譜、書き込みで真っ黒になった論文のコピー、コンクールのパンフレット。そのどれもが、喉の病でソプラノ歌手としての道を断念せざるを得なかった、過去の自分の、痛々しいまでの情熱の残骸だった。
その、一番底。
他のどの資料とも違う、異質な手触りのファイルがあった。薄い、黒いボール紙のファイル。何のラベルも貼られていない。
どうして、こんなものを。
記憶の糸をたぐり寄せながら、彼女は、まるでパンドラの箱を開けるかのように、ゆっくりと、そのファイルを開いた。
中にあったのは、たった一枚の、黄ばんだ五線譜だった。
印刷ではない。手書きだ。インクは、歳月を経て、赤錆のような色に褪せている。だが、そこに書かれた音符は、ただならぬ力強さと、ある種の攻撃性さえ帯びていた。ひとつひとつの音符が、まるで楔のように、五線譜に打ち込まれている。
そして、その右肩に、ただ一文字だけ、記号が記されていた。
――Σ。
その瞬間、綾の呼吸が、止まった。
忘れようとしても忘れられなかった記憶が、この一枚の紙によって、鮮烈に蘇る。
あれは、大学四年の冬だった。
深夜の、第一練習室。外では、凍てつくような風が吹いていた。
「――ねえ、綾。聴いてよ。すごいものを見つけちゃった」
そう言って、彼女――沙月(さつき)は、悪戯っぽく笑った。彼女は、綾にとって、唯一無二の親友であり、そして、越えることのできない壁でもあった、天才ソプラノ。
沙月がピアノの前に置き、指し示したのも、まさに、この一枚の楽譜だった。
「これ、なんだか知ってる? 匿名作曲家『Σ』の、未発表曲の断片。禁曲『抱擁のカデンツァ』の一部だって噂よ」
「沙月、やめなさい。Σに関わるのは、連盟の規約違反よ。それに、危険すぎる」
綾は、本能的な恐怖から、彼女を止めようとした。当時から、Σの曲は、演奏者の精神に不可逆的な影響を与える危険性が指摘されていた。皮肉なことに、問題視されたΣの曲についての研究が、音響心理学から合唱薬理学が独立する契機の一つになったとも言われる。
だが、沙月はそんな危険性などお構いなし、聞く耳を持たなかった。彼女の瞳は、常に、境界線の向こう側だけを見ていた。誰も到達したことのない、歌の極致。その危険な輝きに、彼女は魅入られていた。
「危険だから、いいんじゃない。誰も聴いたことのない音を、この喉で、最初に響かせるの。――ねえ、綾。愛って、技術で増幅できると思う?」
「……何を、言って」
「私は、できると信じてる。IDSなんて、まだ不完全よ。もっと直接、もっと深く、人の魂を共鳴させられるはず。この楽譜には、そのヒントが隠されてる気がするの」
沙月は、そう言うと、すう、と息を吸った。
そして、歌い始めた。
それは、綾が今まで聴いた、どんな音楽とも違っていた。
美しい、という言葉では、まったく足りない。そのメロディは、聴く者の理性を麻痺させ、心の、もっとも柔らかな、無防備な部分を、直接鷲掴みにしてくるようだった。甘美で、抗いがたい。まるで、魂が、その音に溶かされていくような感覚。
練習室に設置されていた旧式のIDSが、異常な反応を示し始めた。
Aff値が、ありえない速度で上昇していく。70、80、90……。そして、それまでほとんど動いたことのなかったObl(緋色)のインジケーターが、狂ったように点滅を始めた。
95……98……100。
飽和。振り切れた。
その時、綾は見た。
歌っている沙月の瞳から、ふっと、理性の光が消えるのを。
その表情は、恍惚としていた。だが、それはもはや、芸術的な感動の表情ではなかった。自我が融解し、ただ、音の快楽だけを貪る、無垢な獣のような顔。
――越境。
自由意志が、歌によって完全に侵食される、禁断の瞬間。
メロディが終わり、最後の音が、ピアノの残響と共に消えていく。
だが、沙月は、戻ってこなかった。
彼女は、虚空を見つめたまま、ただ、うわ言のように、同じ言葉を繰り返していた。
「……きれい……きれい……」
「沙月! しっかりして、沙月!」
綾が、その肩を掴んで揺さぶる。
その時、ようやく沙月の瞳に、焦点が戻った。だが、その瞳に映っていたのは、綾が知っている親友の輝きではなかった。深い、深い混乱と、自分の内側で何か大切なものが壊れてしまったことを悟った者の、底なしの恐怖の色だった。
「……私、今、どこにいたの……?」
その一言が、二人の間に、決定的な亀裂を入れた。
沙月は、その日を境に、歌えなくなった。いや、歌うことを、恐れるようになった。彼女の心は、あの数分間の「越境」によって、決して元には戻らない傷を負ってしまったのだ。
――研究室の冷たい空気が、綾を現実へと引き戻した。
彼女は、自分の指先が、氷のように冷たくなっていることに気づいた。額には、脂汗が滲んでいる。
目の前にある、一枚の楽譜。
Σの断片。
それは、親友の未来を奪った、呪いの遺物だった。
この記憶こそが、綾を、今の彼女にしたのだ。
勝利や名声よりも、安全を。スコアの最大化よりも、完全な制御を。彼女のその頑ななまでの信念は、すべて、あの夜の恐怖から生まれていた。二度と、あんな悲劇を、自分の目の前で、自分の教え子たちに、起こさせてはならない。
綾は、ファイルを閉じると、それをシュレッダーにかけようとして――その手を、止めた。
指が、微かに震えている。
捨てられない。
この、悪魔的なまでの力を秘めたメロディを、完全にこの世から消し去ることが、できなかった。
心の、もっとも暗く、冷たい部分で、別の声が囁いていた。
――これがあれば、勝てる。
この断片を、ほんの少しだけ、安全に改変して引用すれば。誰も気づかれずに、あのライバル校を上回る、圧倒的な同期指標を叩き出せるかもしれない。
その、黒い誘惑。
綾は、深い葛藤の中で、そのファイルを、机の引き出しの、一番奥へと仕舞い込んだ。鍵は、かけずに。
まるで、いつか自分が、再びその禁断の扉を開けてしまう可能性を、自ら残しておくかのように。
蛍光灯の光が、彼女の苦悩に満ちた横顔を、冷たく照らし出していた。
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