第6話 con sordino(コン・ソルディーノ)ー触れられない宝石
EIDOLONの担当者が残していった「アノマリー(例外)」という言葉は、見えない棘のように、私の心に深く刺さっていた。
それは、特別な才能への賞賛のようでありながら、同時に、理解不能な異物に対するレッテル貼りのようにも聞こえたからだ。私は、ただ、私であろうとしただけなのに。
新型センサーのテスト以来、音楽室の空気は、以前にも増して張り詰めていた。綾先輩が掲げた「完全な制御」という目標は、私たちに、これまで以上にストイックな練習を強いた。感情の蛇口を開け、そして閉める。それは、言うは易く行うは難し、という言葉をそのまま体現したような、気の遠くなる作業だった。
私たちは、まるで感情の筋力トレーニングでもするかのように、Aff値を意図的に30まで上げて5分維持し、次の瞬間にはそれを10以下にまで抑制する、といった練習を繰り返した。それは、もはや芸術活動というよりも、精神修行に近いものだった。多くの部員が、その過酷なコントロールに苦戦し、疲弊の色を隠せないでいた。
そんな中、ひときわ異彩を放っていたのが、月島詩織さんだった。
彼女のアルトの声は、日を追うごとに、その輝きを増していた。それは、まるで、幾重もの分厚い岩盤の下で、誰にも知られずに磨かれてきた原石が、ついに地上に姿を現したかのような、圧倒的な存在感があった。彼女の声には、人の心を無理やりこじ開けるような暴力的な力はない。だが、その深く、そしてどこまでも温かい響きは、聴く者の心の壁を、いつの間にか、するりと通り抜けてしまうのだ。まるで、霧が森に染み込んでいくように。
「月島さんの声は、特別ね」
ある日のパート練習の後、綾先輩が、珍しく感心したような声で言った。
「あなたの声は、それ自体がセロトニン系の効果を持っている。技術的にAffectionを誘発しようとしなくても、あなたの声と共鳴することで、相手の心は自然と、穏やかに開かれていく。それは、千佳とはまた違う、稀有な才能よ」
その言葉通り、詩織さんとペアを組む相手は、誰もが驚くほど安定した精神状態で歌うことができた。彼女と歌っていると、IDSの数値を気にする必要がない。ただ、その心地よい響きに身を委ねていれば、自然と、もっとも美しいハーモニーが生まれるのだ。
だが、彼女には、致命的な欠点があった。
それは、彼女自身が掲げた、「第三層」と「第四層」への同意保留という壁だった。
「月島さん。そろそろ、決めてもらえないかしら」
その日、ついに真帆先輩が、詩織さんに最終的な決断を迫った。次の地区大会のエントリーが、間近に迫っていたからだ。
「あなたの才能は、誰もが認めている。でも、今のままでは、あなたを儀式相到達の可能性がある曲のメンバーに入れられない。接近演出も、もちろんできない。それは、チーム全体の戦略にとって、大きな損失なのよ」
真帆先輩の言葉は、正論だった。感情論ではなく、あくまで合唱団という組織の論理に基づいた、冷静な要求。
詩織さんは、唇をきつく結んで、俯いていた。その小さな肩が、見えない重圧に押しつぶされそうに、か細く震えている。
「……ごめんなさい。でも、私……」
かろうじて絞り出した声は、ひどくか細かった。
「歌で、誰かと無理やり繋がるのが、怖いんです。触られるのも……苦手で。視線を合わせ続けるのも……息が、できなくなって……」
その告白に、音楽室はしんと静まり返った。
それは、単なる「やる気がない」というレベルの話ではなかった。彼女の、もっと根源的で、おそらくは過去の何かに起因するであろう、深刻な問題。対人距離への、一種の恐怖症。
真帆先輩は、それ以上何も言えなかった。規約は本来、私たち一人一人を守るためのものだ。そして、守る中には、個人の自由意志が含まれる。その規約を盾に、本人が「怖い」と訴えている以上、踏み込むことは許されない。
「わかったわ。無理強いはしない。でも、あなたをどう活かすか……綾先輩と相談させてもらう」
そう言って、真帆先輩は静かにその場を離れた。
残された詩織さんは、まるでその場に縫い付けられてしまったかのように、動けずにいた。周りの部員たちも、どう声をかけていいかわからず、遠巻きに見ているだけだ。期待と、失望と、ほんの少しの同情。そんな、残酷な視線が、彼女の小さな身体に突き刺さっている。
私は、たまらず彼女のそばに駆け寄った。
「月島さん、大丈夫?」
声をかけると、彼女の肩が、びくりと跳ねた。顔を上げたその瞳は、涙で潤んでいた。
「ごめんなさい、高坂先輩……。私、みんなの足、引っ張って……」
「そんなことない。誰もそんなこと思ってないよ」
「でも、本当は、歌いたいんです。みんなと、もっと綺麗に響き合いたい。先輩とも……。なのに、身体が、言うことを聞かなくて……」
彼女の瞳から、ぽろり、と一粒の涙がこぼれ落ちた。
それは、まるで、硬い殻に閉じ込められた宝石が、その内側から放つ、悲痛な光のようだった。
その時、私は、ほとんど無意識に、手を伸ばしていた。
泣いている彼女の、その震える肩に、そっと触れて、慰めてあげたい。そんな、ごく自然な衝動に駆られた。
だが、私の指先が、彼女の制服のブレザーに触れる、その寸前。
詩織さんの身体が、まるで感電したかのように、激しくこわばったのがわかった。彼女は、私の手を、まるで恐ろしいものでも見るかのように見つめ、そして、ほとんど悲鳴に近い声で言った。
「――触らないでっ!」
その拒絶の言葉は、鋭い氷の刃のように、私の胸を貫いた。
私は、伸ばした手を、どうしていいかわからないまま、宙に浮かせた。音楽室中の視線が、私たち二人に、一点集中している。
気まずい沈黙。
壊してしまった、という絶望的な感覚。
「……ごめんなさい」
詩織さんは、それだけ言うと、荷物もそのままに、音楽室を飛び出していった。
一人残された私は、差し出したままの自分の右手と、彼女が消えていった扉を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
触れられない宝石。
彼女の美しい声は、私たちの誰もが渇望する宝物だった。
だが、その宝石は、あまりにも繊細で、傷つきやすいガラスケースの中に収められていて、私たちは、それに指一本、触れることすら許されないのだ。
その日、私は初めて、歌によって人を繋げることの、本当の難しさを知った。
それは、ただ技術を磨けばいいという問題ではなかった。もっと深く、そして繊細な、人の心の、もっとも柔らかな部分に触れることの、怖さと、そして、責任の重さ。
私の伸ばした手は、彼女を救うどころか、もっと深く傷つけてしまったのかもしれない。その無力感が、鉛のように、私の心に重くのしかかっていた。
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