第5話 sforzato / sfz(スフォルツァート)ースポンサーの圧力
校内発表会でのサイレン事件は、私たちの心に、消えない細い傷跡を残した。
音楽室の空気は、それまでとは明らかに違う重さを纏っていた。誰も口には出さないけれど、あのけたたましい電子音と、蜜色に明滅する警告ランプの残像が、全員の脳裏に焼き付いている。私たちの歌は、もう無邪気な芸術ではいられないのだと、あの事件が証明してしまったからだ。
「――繰り返すわ。私たちの目的は、安全の確立。その上での、芸術表現よ。スコアは、結果であって、目的じゃない」
事件から数日後のミーティングで、綾先輩は、いつもよりずっと硬い声で言った。その言葉は、明らかに玲奈のペア、そして高揚感に流されかけた私たち全員に向けられていた。
「IDSの数値を追い求めるあまり、自分を見失うこと。それこそが、この合唱薬理学における、最大の禁忌。二度と、あんな失態は許さない」
誰も、反論できなかった。
あの日の、観客たちの戸惑いの表情。中断された演奏。そして、音楽室に戻った後の、息が詰まるような沈黙。すべてが、綾先輩の言葉の正しさを裏付けていた。
そんな重苦しい空気の中に、異質な存在が入り込んできたのは、その日の練習が始まってすぐのことだった。
扉がノックされ、入ってきたのは、教頭先生と、見慣れないスーツ姿の男性だった。歳は三十代半ばくらいだろうか。高価そうな細いフレームの眼鏡をかけ、その奥の瞳は、私たちと、この部屋の機材とを、値踏みするように見回していた。
「紹介する。私たちの活動を支援してくださっている、音響技術メーカー『EIDOLON』の、担当者さんだ」
EIDOLON――私たちの使うミラー譜面台やIDSのシステムを提供している、大口のスポンサー企業。その名前を聞いて、私たちは慌てて立ち上がり、ぎこちなく頭を下げた。
「いやいや、どうぞそのままで。私は、君たちの生のパフォーマンスと、機材の運用データを拝見しに来ただけですから」
男性は、にこやか、というよりは、貼り付けたような営業スマイルで言った。その声は滑らかだったが、どこか人間的な体温が感じられなかった。
「先日、校内発表会でアラートが出たと伺いました。実に興味深いデータです」
彼は、手にしたタブレットを操作しながら言った。
「ドーパミン系楽曲と観客の相互作用による、Aff値の急激なオーバーシュート。私たちのシミュレーション通りの結果が出た、とも言えます」
「……結果、ですか」
綾先輩が、わずかに声をとがらせた。
「私たちの生徒が、危険な領域に足を踏み入れたという『事故』の報告書を、あなたは『興味深いデータ』と?」
「おや、言葉の綾が過ぎました。お気を悪くされたのなら失礼。もちろん、安全が第一であることは承知しています。だからこそ、これをお持ちしたんですよ」
そう言って、男性がアタッシュケースから取り出したのは、見慣れたIDSのセンサーとは少し違う、より小型で、メタリックな輝きを放つ機械だった。
「新型の、超高感度センサーです。現行機よりもはるかに微細な生体反応――皮膚温度の変化、瞳孔の収縮、声帯の微振動のパターン――をリアルタイムで検知し、より正確に、そしてより早く、IDSの数値を予測、算出します。これがあれば、閾値に到達する前に、危険を予知できる」
「……感度過剰は、ノイズを拾い、かえってリスクを高める、という懸念については?」
綾先輩が冷たい声で質問する。
だが、男性は、まるで意に介さないというように、首を横に振った。
「そのための、実地データです。――高坂さん、でしたかな」
不意に、その視線が、私をまっすぐに射抜いた。
「あなたが、この合唱団で最もAff値のポテンシャルが高いと伺っています。ぜひ、この新型センサーを試させてはいただけませんか? あなたの歌が、私たちの技術を、次のステージへと引き上げてくれる」
断れるはずがなかった。
スポンサーからの、丁寧な、しかし拒否を許さない要請。私は、綾先輩の制止するような視線を背中に感じながら、ゆっくりと前に進み出た。
私の胸に、小さなクリップで、ひやりと冷たい新型センサーが取り付けられる。それは、まるで、心臓の鼓動を盗み聞きするための、精密な盗聴器のようだった。男性が操作するタブレットとセンサーがBluetoothで接続され、壁に備え付けられた大型モニターに、見たこともないような複雑なグラフや数値の羅列が映し出された。
「すごい……」
誰かが、息を飲む。
そこには、私の心拍数、呼吸の深度、発声時の声帯振動パターン、そのすべてが、リアルタイムで数値化され、波形となって表示されていた。私は、もはや一人の人間ではなく、分析されるべきデータソース、歩く実験素材になったのだ。
「では、お願いできますかな。オキシトシン特化型の、一番シンプルなフレーズで結構ですので」
男性は、研究者が実験動物を観察するような目で、私に言った。
音楽室が、静まり返る。
二十数名分の視線と、EIDOLONの担当者の値踏みするような視線、そして、モニターに映し出された、自分自身の生体データ。その、何重ものプレッシャーの中で、私は歌わなければならなかった。
すう、と息を吸う。
モニターの呼吸深度グラフが、大きく振れるのが見えた。ダメだ。こんなに緊張していては、まともな声は出せない。
私は、ぎゅっと目を閉じた。
あの時と同じように。詩織さんと歌った時のように。外部からの情報を、遮断する。モニターも見ない。スポンサーの顔も見ない。みんなの視線も、今は忘れる。
ただ、聴くんだ。自分の中にある、一番静かで、一番純粋な音を。
――歌は、麻薬じゃない。
綾先輩の言葉が、脳裏に蘇る。そうだ。これは、誰かのための見世物じゃない。数値を出すための道具でもない。私の、歌だ。
私は、歌い始めた。
それは、Affectionを誘発するための歌ではなかった。
ただ、ひたすらに、Cohesionを高めることだけを意識した。音程の正確さ、声の響きの純度、息のコントロール。音楽の、もっとも根源的で、もっとも無機質な美しさだけを追求した。感情を乗せるのではなく、むしろ、極限まで削ぎ落としていく作業。
それは、青い炎のような歌声だった。
熱狂を生む蜜色の炎ではなく、すべてを焼き尽くす緋色の炎でもない。ただ、静かに、そしてどこまでも高く燃え上がる、純粋なエネルギーの光。
歌い終えても、しばらく誰も何も言えなかった。
ただ、壁のランプが、冴え冴えとした、深い青色に輝いているだけだった。Affのランプは、ほとんど光を灯していない。
最初に口を開いたのは、EIDOLONの男性だった。
「……これは、面白いデータだ」
その声には、先ほどまでの営業スマイルは消え、純粋な技術者としての好奇の色が浮かんでいた。
「Affectionの誘発を目的とした楽曲で、これほどCoh値だけが突出するケースは、前例がない。Aff値を、意図的に抑制した……? まるで、感情に指向性のフィルターをかけたようだ。高坂さん、あなた、一体どういう……」
「――本日のテストは、ここまでとさせていただきます」
男性の言葉を遮って、綾先輩が、きっぱりと言った。その声には、これ以上、私の生徒を実験動物のように扱うことは許さない、という強い意志が込められていた。
男性は、少し残念そうに肩をすくめたが、やがてタブレットの電源を落とした。
「わかりました。ですが、今日のデータは、非常に有益でした。感謝しますよ、高坂さん。あなたは、私たちの技術にとって、実に興味深い『アノマリー(例外)』だ」
アノマリー。
その言葉を残して、彼は音楽室から去っていった。
扉が閉まった後も、部屋には気まずい沈黙が流れていた。私は、自分の胸につけられたままの、冷たいセンサーを、ただ見つめていた。
その日のミーティングの最後に、綾先輩は、私たち全員に宣言した。
「次の大会までの、私たちの目標が決まったわ。――最大出力の追求ではなく、完全な『制御(コントロール)』。感情の蛇口を、自分の意志で開け、そして、完全に閉める技術。それができなければ、私たちは、いつか自分たちの歌に、喰われることになる」
その言葉を聞きながら、私は、視界の隅で、詩織さんが、じっと私を見つめていることに気づいていた。
その瞳には、恐怖や同情ではなく、確かな共感と、そして、同じ種類の、静かな怒りの光が宿っているように見えた。
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