第4話 glissando(グリッサンド)ー70のサイレン

私たちの歌が、初めて「牙を剥いた」のは、秋風が少しだけ肌寒くなってきた頃に行われた、校内発表会でのことだった。


体育館に設えられた簡素なステージ。全校生徒と、数名の保護者、そして数名の学校関係者だけが見守る、内輪の発表会。全国大会の熱気とはほど遠い、文化祭の延長線上にあるような、和やかな空気がそこにはあった。だからこそ、私たちは油断していたのかもしれない。


その日の発表曲は二曲。一曲目は、セロトニン系の、心を落ち着かせる効果のある穏やかな合唱曲。二曲目は、ドーパミン系の、聴く者の気分を高揚させる、リズミカルで華やかな曲。綾先輩の狙いは、この二曲のコントラストによって、私たちの表現の幅を示すことにあった。


「いい? ドーパミン系の曲は、Affectionと、そしてObsessionを短期的に引き上げる効果があるわ。観客の手拍子や歓声が、トリガーになることもある。常に冷静に、自分たちの歌をコントロールすること。IDSから目を離さないで」


ステージ袖で、綾先輩はそう私たちに最後の指示を与えた。Obsession――反復による執着傾向。IDSが計測する、三つ目の危険指標。通常はほとんど動くことのないその数値が、昂揚系の楽曲や、特定の環境要因によって、稀に緋色の光を灯すことがある。


一曲目は、完璧だった。

私たちの歌声は、体育館の隅々まで、清らかな水の波紋のように広がっていった。壁のランプは、終始、穏やかな青色(Coh)を灯し続け、聴衆の心に静かな感動を広げているのが、肌で感じられた。


問題は、二曲目だった。

曲が始まった瞬間から、空気は一変した。ボディパーカッション担当の凛が刻む、力強いリズム。それに乗って、私たちの歌声が、弾けるような生命力をもって放たれる。観客席からは、自然と手拍子が沸き起こった。


その手拍子が、最初のトリガーだった。


壁のランプが、急速に蜜色へと変化していく。Aff値が、ぐんぐん上昇していくのが、譜面台のディスプレイに表示される。40、50、60……。蜜月相の領域に、いとも簡単に到達してしまった。


まずい、と思った。会場の空気が、私たちの歌に「酔い」始めている。

生徒たちの顔が、興奮に紅潮していく。その熱気が、ステージ上の私たちに跳ね返ってきて、さらに私たちの感情を煽る。悪循環だ。


ミラー譜面台に映る、ペアを組む美紀の顔が、見たこともないほど高揚している。瞳は爛々と輝き、その唇から紡がれる歌声は、もはや芸術というよりも、もっと本能的な、叫びに近い何かに変わりつつあった。


その熱に、私も引きずり込まれそうになる。

ダメだ、冷静に。私は私でいなければ。心の中で、必死に自分に言い聞かせた。


異変に最初に気づいたのは、玲奈と凛のペアだった。

彼女たちのAff値は、他のペアを圧倒する速度で上昇し、ついに、その閾値を超えようとしていた。


Aff: 68……69……


そして、


――70。


その瞬間、体育館に、けたたましい電子音が鳴り響いた。

ビーッ、ビーッ、ビーッ。

それは、IDSが設定された閾値を超えたことを知らせる、自動アラート。儀式相への突入を告げる、非常警報のサイレンだった。


壁のランプが、それまでの蜜色から、警告を示すように、激しいフラッシュ点滅を始めた。観客たちの手拍子が、驚きによって止まる。生徒たちの興奮した顔に、困惑の色が浮かんだ。


音楽も、私たちの歌声も、すべてが止まった。

体育館は、サイレンの無機質な音と、突然訪れた気まずい沈黙に支配された。


ステージの上が、パニックに陥りかける。

「どうしよう……」

「やっちゃった……」

そんな声が、あちこちから聞こえてくる。


その混乱を、一瞬で鎮めたのは、やはり綾先輩だった。

彼女は、指揮台の上で、少しも動じていなかった。ただ、静かに、そして鋭い眼光で、玲奈のペアを見つめていた。


「――演奏、一時停止」


凛とした声が、マイクを通して体育館に響き渡る。

「システムトラブルです。申し訳ありませんが、少々お待ちください」

彼女は、冷静に観客にそう告げると、私たちの方に向き直った。その表情は、普段の練習の時よりもさらに厳しく、冷たい光を宿していた。


「玲奈、凛。前に」

呼ばれた二人は、青ざめた顔で、おずおずと綾先輩の前に進み出た。

「申し訳、ありません……」

玲奈が、かろうじて声を絞り出す。


「謝罪は後。――後処置を」

綾先輩は、それだけを命じた。

玲奈と凛は、互いに向き合うと、ぎこちない動作でデタッチング・ブレスを始めた。だが、二人の呼吸はまったく合っていない。ドーパミンによって強制的に引き上げられた昂奮は、そう簡単には抜けなかった。


「……千佳」

不意に、綾先輩が私を呼んだ。

「はい」

「あなたの声が必要よ。セロトニン系の、一番落ち着くフレーズを、静かにハミングして。全員で、それに合わせて」


私は、こくりと頷くと、すう、と息を吸った。

そして、もっとも穏やかで、もっとも清らかなメロディを、静かに口ずさみ始めた。私のハミングに、他の部員たちの声が、少しずつ、そして確かによりそってくる。


それは、祈りのような響きを持っていた。

興奮した心を鎮め、バラバラになった意識を、もう一度、安全な場所へと引き戻すための、音楽による応急処置。


激しく点滅していた壁のランプが、ゆっくりと、その光を鎮めていく。けたたましかったサイレンも、やがて止んだ。

体育館に、ようやく静寂が戻ってきた。


発表会は、そこで中断となった。

私たちは、誰一人、言葉を発することなく、ステージを降りた。観客席の、好奇と戸惑いが入り混じった視線が、針のように背中に突き刺さる。


音楽室に戻ると、重い沈黙が、私たち全員を支配していた。

綾先輩は、腕を組んで、窓の外を眺めている。その背中が、何を考えているのか、誰にもわからなかった。


最初に沈黙を破ったのは、玲奈だった。

「すみませんでした……。会場の雰囲気に、飲まれてしまって……」

彼女は、床に視線を落としたまま、震える声で言った。


「飲まれた、だけかしら」

綾先輩は、振り返らないまま、静かに問うた。

「あなたは、あの昂奮を、心のどこかで『楽しんで』いなかった?」


その言葉は、鋭い刃物のように、玲奈の、そして私たちの胸に突き刺さった。

楽しんでいた。

きっと、そうなのだ。あの、歌によって人が熱狂していく感覚。世界と一体になるような、万能感。あの蜜色の光の中心にいることの、抗いがたい快感。


「歌は、麻薬じゃない」

綾先輩は、ようやく私たちの方に向き直った。その瞳には、深い、深い悲しみの色が浮かんでいた。

「私たちの歌が、誰かの心を壊す前に。私たちは、今日起こったことの意味を、嫌というほど、理解しなくちゃいけない」


その日、私たちは、自分たちの声が持つ本当の「力」と、そして「怖さ」を、初めて知った。

ただ美しいだけではない。人を傷つけ、心を乱し、日常を破壊しかねない、危険な力。

蜜色のハーモニーの裏側に隠された、その冷たい牙の存在を、私たちは、決して忘れることができないだろう。

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