第3話 cancrizans(カンクリザンス)ーミラー譜面台の残像

翌日の練習は、これまでとは少し違う緊張感に包まれていた。

綾先輩が指揮台の上で宣言したのは、情動同期の、それも視覚情報に特化した訓練だった。


「今日は、ミラー譜面台だけを使って練習します。目的は、視覚同期能力の向上。表情もまた、音楽の一部だということを、身体に刻み込んで」


その言葉と共に、私たちは二人一組になり、互いの譜面台を向かい合わせるようにセッティングした。黒い板に埋め込まれた鏡が、互いの顔をまともに映し出す。それは、ただの鏡ではない。自分の顔のすぐ隣に、相手の顔が並んで映る。歌っている最中の、もっとも剥き出しになった感情の機微を、互いに監視し合うための装置だ。


正直に言って、私はこの練習が苦手だった。

歌っている時の自分の顔を見るのは、ひどく居心地が悪い。まるで、自分の秘密の日記を、自分自身に音読して聞かせているような、気恥ずかしさと自己嫌悪が入り混じった感覚。


「いい? 表情は、Affectionの数値を引き上げるための、もっとも簡単なトリガーよ。楽譜のクレッシェンド記号と同じ。作曲家が意図した感情の昂りを、あなたたちは表情で『演奏』するの」


演奏、という言葉に、私の心は小さくささくれだった。

綾先輩の指示に従い、私たちは楽譜に指定された表情――第二小節で微かな笑み、第四小節で憂いを帯びた眼差し――を作る練習を始めた。それは、もはや歌というよりも、無言劇の稽古に近い作業だった。


鏡に映る自分の口角を、無理やり引き上げる。だが、瞳は少しも笑っていない。その、ちぐはぐな表情が、鏡の向こうから私を冷ややかに見つめ返してくる。まるで、「嘘つき」とでも言われているような気がして、私はそっと目を伏せた。


「――玲奈、凛。前に出て。手本を見せて」


綾先輩に呼ばれ、玲奈と凛のペアが、少し得意げな顔で前に進み出た。目立ちたがり屋の玲奈と、常に合理性を追求する凛。対照的な二人だが、ことIDSのスコアメイクに関しては、セラフィータで最高の技術を持つペアだった。


二人が歌い始めると、音楽室の空気が変わった。

それは、技術的に完璧なパフォーマンスだった。ユニゾンは寸分の狂いもなく、ハーモニーは設計図通りに美しく組み上げられていく。そして、何より異様だったのは、その表情のシンクロ率だった。


楽譜の指定通り、二人はまったく同じタイミングで微笑み、同じ角度で首を傾げ、寸分違わぬタイミングで目を伏せる。まるで、精巧に作られた二体のからくり人形が、プログラム通りに動いているかのようだ。


壁のランプが、またたく間に濃い蜜色に染まっていく。Aff値は、あっという間に60台後半を叩き出した。

部員たちから、ため息のような感嘆の声が漏れる。

「すごい、プロみたい……」


「上出来ね」

演奏後、綾先輩は満足げに頷いた。

「教科書通りの視覚同期。IDSもそれに応えている。審査員は、これを完璧な『団結』の表象として受け取るでしょう」


「家で、鏡の前で練習しましたから」

玲奈が、誇らしげに胸を張る。隣で凛が、平坦な声で付け加えた。

「顔面筋の運動も、他の筋肉と同じ。反復練習で最適化できるパラメーターのひとつです」


最適化できる、パラメーター。

その言葉が、私の胸に冷たい小石のように沈んだ。


「――次。千佳、月島さん」


心臓が、どきりと跳ねた。詩織さんと、私。

彼女はまだ第四層に同意していない。だから、これは本格的なペアリングではなく、あくまで基礎練習の一環としての組み合わせだろう。だが、それでも。


私たちは、玲奈たちのいた場所へと、おそるおそる歩み出た。向かい合って立つ。ミラー譜面台の鏡が、緊張でこわばった私たちの顔を、残酷なまでにくっきりと映し出していた。


「簡単なフレーズでいいわ。ただし、相手の表情をよく見て。呼吸を、そして感情を合わせて」


綾先輩の指示。

私は、詩織さんを見た。彼女は、鏡に映る自分の姿に耐えられないというように、固く目を閉じていた。その長いまつげが、不安そうに震えている。


歌が、始まった。

私の声は、いつも通りに出た。だが、詩織さんの声は、いつもの輝きを失っていた。普段は、深く、そしてどこまでも柔らかな宝石のようなアルト。それが、今は石のように硬く、こわばって聞こえる。


IDSの数値は、絶望的だった。

Coh(青)こそ、私たちの絶対音感のおかげで最低限の数値を保っていたが、Aff(蜜色)のランプは、ほとんど色を変えなかった。病人の顔色のような、薄く濁った黄色が、明滅するでもなく、ただそこに在るだけ。


綾先輩が、ぴしゃり、と手を叩いた。音楽が、中断される。

「止めなさい。月島さん、緊張しすぎ。肩に力が入りすぎて、呼吸が上がってきてるわ」

「すみません……。見られていると、どうしていいか……」

詩織さんは、消え入りそうな声で言った。その声を聞いて、私の胸がちくりと痛んだ。


「千佳。あなたも良くない」

厳しい声が、今度は私に向けられた。

「あなたの表情は、教科書通りの『励ましの笑み』よ。でも、目が笑ってない。鏡はすべてを映し出すの。IDSは、本物の微笑みと、筋肉を動かしただけの微笑みの違いを、正確に見抜く。それが、感情の不協和音を生んでいるのよ」


図星だった。

私は、彼女を安心させようと、「優しい先輩」を演じていた。その嘘を、このミラー譜面台とIDSは、完全に見破っていたのだ。


鏡に映る、歪んだ笑顔の私。怯えた顔の詩織さん。

それが、今の私たちの、接続失敗の残像。


どうすればいい?

私は、どうしようもない焦りの中で、ひとつの答えに行き着いた。

――もう、鏡を見るのはやめよう。


私は、すっと目を閉じた。視覚情報を、遮断する。

そして、意識のすべてを、耳に集中させた。聴くんだ。彼女の声を。彼女の呼吸を。彼女の心の震えを。


「――月島さん。もう一度、歌って」


私は、自分のパートを歌い始めた。それは、励ましのための歌じゃない。評価されるための歌でもない。ただ、ここに、安全な場所があることを伝えるための、土台としての音。


すると、閉じた瞼の裏で、空気が変わるのがわかった。

硬く強張っていたアルトの声が、ふっと、その呪縛から解き放たれる。本来の、深く、そして温かい響きが、私のソプラノに、そっと寄り添ってくる。それは、まるで、傷ついた鳥が、ようやく止まり木を見つけたかのような、安堵に満ちた音色だった。


ランプの色は、見ていない。数値も、知らない。

でも、確かに感じた。ほんの一瞬、私たちの心は、確かに繋がった、と。


その日の練習後、私は一人、壁に立てかけてあったミラー譜面台の前に立っていた。電源の落ちた鏡は、ただの黒いガラスだ。そこに映る自分の顔を見つめる。


「ありがとうございました……。最後の、よかったです」


不意に、背後から声をかけられた。詩織さんだった。

「こっちこそ。月島さんの声、やっぱりすごいね。聴いていると、安心する」

私がそう言うと、彼女は少しだけ、はにかむように笑った。


「……先輩の壁が、少しだけなくなった気がしました」

「壁……?」

「はい。いつも、先輩の周りには、きれいなガラスみたいな、透明な壁がある気がして。でも、さっき目を閉じて歌ってくれた時、それが、ふっと消えたから……」


彼女はそれだけ言うと、ぺこりとお辞儀をして、去っていった。

一人残された音楽室で、私は、鏡に映る自分の顔を、もう一度見つめた。

透明な、壁。

詩織さんに言われた言葉が、いつまでも耳の奥で響いていた。鏡に映る私は、その言葉の意味を、まだ理解できないでいる、途方に暮れた顔をしていた。

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