第2話 quattro voci(クワットロ・ヴォーチ)ー同意の四層
練習後のデタッチング・ブレスを終えても、身体の芯には、まだ蜜色のハーモニーの微かな残響がこびりついていた。
それは、真夏のアスファルトに残る陽炎のような、不確かな揺らめき。目を閉じれば、今もミラー譜面台越しに見た美紀の潤んだ瞳が浮かんでくる。あの熱っぽい眼差しは、歌が生んだ幻。そう頭では理解しているのに、心臓のあたりが、まるで他人のものであるかのように、ぎこちなく脈打つのを感じる。
「――新入部員の、月島さん。パートはアルト。みんな、よろしく」
綾先輩の声で、私は思考の淵から引き戻された。見ると、アルトのパートリーダーである真帆先輩が、さっきの新人――月島詩織さんを伴って、私たちの前に立っていた。詩織さんは、改めて真正面から見ると、驚くほど小柄で、華奢な印象だった。切りそろえられた黒髪が、照明を吸い込んで静かな光を放っている。彼女は差し出された視線にどうしていいかわからないというように、少しだけ俯いて、自分のつま先を見つめていた。
「さて、月島さん。まずは、セラフィータで歌う上で、もっとも重要な手続きに入ります」
真帆先輩は、きわめて事務的な、しかし一切の妥協を許さない声で言った。彼女は、私たち三年生の中でも特に規約に厳格で、その正確無比な運用姿勢は、時に綾先輩の芸術的判断と対立することさえある。彼女が取り出したのは、一枚のタブレット端末だった。画面には、細かな文字で埋め尽くされた電子署名フォームが表示されている。
「これが『オキシトシン規約』、通称『同意の四層』。セラフィータで歌う上で、憲法よりも優先されるルールよ。よく読んで」
詩織さんは、こくりと頷き、タブレットを受け取った。その小さな画面を、真剣な眼差しが滑っていく。隣で成り行きを見守っていた美紀が、私の腕を軽くつついた。
「出た、真帆先輩のお説教タイム。新人さん、緊張しちゃうよね」
「でも、大事なことだから」
私は、小さな声で答えた。本当に、大事なことなのだ。この規約がなかった頃、私たちはもっとずっと、無防備で、危険な歌を歌っていた。残響酔いが抜けずに、翌日の授業でぼうっとしたり、練習相手への一時的な感情を、本物の恋だと勘違いしてしまったり。あの混乱を思えば、真帆先輩の厳格さは、私たちを守るための盾そのものだった。
やがて、詩織さんが顔を上げた。その表情には、緊張よりも深い、戸惑いの色が浮かんでいた。
「あの……」
ためらうように、彼女は口を開いた。
「感情に、同意書が必要なんですか?」
その問いは、あまりにも純粋で、まっすぐに核心を突いていた。真帆先輩は、少しも動じずに答える。
「いいえ。感情そのものじゃないわ。私たちの歌が、あなたの感情を『意図せず、あるいは意図的に、誘発する可能性のある行為』に対してよ。私たちは、あなたの心を守る義務があるの」
「守る、義務……」
「そう。IDSの数値は、私たちの芸術性の指標であると同時に、あなたの自由意志を脅かす凶器にもなり得る。だから、どこまで踏み込むか、その境界線を、あなた自身が決めるのよ」
真帆先輩は、タブレットの画面を指でなぞりながら、四つの項目を一つずつ読み上げていく。
「第一層:歌唱参加への同意。これは、部活動への参加そのものね。あなたはすでに同意済み」
「第二層:特定曲目への同意。ドーパミン系やオキシトシン特化型のように、IDS値が変動しやすい曲を歌うことへの包括的同意。これも、ほとんどの人がサインするわ」
詩織さんは、静かに頷いている。真帆先輩は、そこで一度言葉を切り、彼女の目をじっと見つめた。
「問題は、次。第三層:儀式相の到達可能性への同意。IDSのAff値が70を超えた領域――『儀式相』に、練習または本番で到達する可能性を許容するかどうか。ここからは、教員の立ち会いが義務付けられる危険水域よ」
儀式相。告白衝動や、強い一体感を渇望するようになると言われる領域。私たちの練習では、綾先輩の管理のもと、超えてはならない壁として厳格に運用されている。
「そして最後。第四層:個別ペアとの接近演出への同意。特定の相手との間で、視線の固定、接触、その他、特に強い情動同期を促す演出を行うことへの最終同意。これは、都度、相手と楽曲ごとに更新され、そして、いつでも理由なく撤回できる、あなたの最後の権利」
説明を終えても、詩織さんはしばらく黙っていた。その細い指が、タブレットの縁をなぞっている。彼女の沈黙が、音楽室の空気を少しだけ重くする。誰もが、彼女の決断を待っていた。
やがて、彼女は顔を上げ、真帆先輩にタブレットを差し出した。
「すみません。第三層と第四層は……少し、考えさせてください」
その言葉に、周りにいた部員たちが、小さくざわめいた。
「え、同意しないの?」
「やる気、ないのかな……」
そんな囁きが聞こえてくる。全国大会を目指すような強豪校の合唱部で、強くなるための演出を拒否するというのは、そういうふうに受け取られても仕方がなかった。
だが、真帆先輩は、やはり表情を変えなかった。
「もちろん。それはあなたの権利よ。無理強いは絶対にしない。決まるまでは、儀式相に到達する可能性のある練習からは外れてもらうことになるけれど、それでいい?」
「……はい。構いません」
そこへ、片付けをしていた綾先輩が、すっと会話に加わった。
「それでいいわ、月島さん。ここは、心を取引する場所じゃない。心を、育てる場所よ。あなたのペースで、あなたの境界線を見つけてくれればいい」
その声は、指揮台にいる時の彼女とは違う、年相応の優しい響きを持っていた。
その日の練習は、それで終わりになった。私は、ロッカーで着替えながら、ずっと詩織さんのことを考えていた。ほとんどの部員が、少しでも高いスコアを出すために、疑いなく全ての項目に同意する。その中で、たった一人、「考えさせてください」と言った彼女の姿が、妙に心に焼き付いていた。
それは、今日の練習の最後に、私がとっさに視線を外した行為と、どこか似ている気がしたからだ。
帰り支度を終え、音楽室の扉に手をかけた時だった。
「あの……高坂、先輩」
振り返ると、詩織さんが立っていた。一人で、少し緊張した面持ちで、私を見ていた。
「千佳でいいよ。……さっきのこと、気にしなくていいからね。正しい判断だと思う」
できるだけ、優しい声で言ったつもりだった。私からの同情が、彼女を追い詰めることのないように。
すると、詩織さんは、ふるふると小さく首を横に振った。そして、まっすぐに私の目を見て、言った。
「……先輩は、どうして、最後に視線を外したんですか?」
「え……」
「みんな、もったいないって言ってたけど……私には、すごく……勇気があることに見えました」
――勇気。
その言葉は、まったく予想していなかった角度から、私の胸にすとんと落ちてきた。
私のあの行為は、いつも「臆病」か「協調性の欠如」のどちらかでしか評価されてこなかった。Aff値の高まりと領域到達を恐れる臆病さ。団体の和を乱す協調性のなさ。それを勇気だと評するのか。
私は、初めて、月島詩織という人間の瞳の奥を、覗き込んだ気がした。
そこには、ただ怯えているだけではない、静かで、澄んだ、強い光があった。それは、他人の評価や熱狂に惑わされず、物事の本質だけを見抜こうとする、探求者の光だった。
「……ありがとう」
私は、やっとそれだけを言うのが精一杯だった。
蜜色の残響で満たされていたはずの心に、彼女の言葉が、一点の清水のように染み渡っていくのを感じていた。
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