恋を生む歌、歌いますーー恋愛薬理合唱団
lilylibrary
第1話 dolce(ドルチェ)ー蜜色のハーモニー
音楽室の空気は、いつも白く澄んでいる。
防音壁に塗り込められた石膏の匂いと、床に塗られたワックスの匂い。そして、私たちの身体から発散される、練習前のわずかな緊張が混じり合った、独特の匂い。私はその、なにも始まっていない静謐な空気の匂いを、そっと肺に満たすのが好きだった。それはまだ、誰の色にも染まっていない、歌う前の私自身の匂いだからだ。
放課後の西日が、高い窓から差し込んでいる。床に落ちた光はくっきりとした四角形を描き、空気中の埃を金色にきらめかせながら、ゆっくりと移動していく。まるで、それ自体が意思を持った巨大な生き物みたいに。
「――準備」
凛、として涼やかな声が、その静寂を破った。指揮台に立った綾先輩の声だ。我が合唱団の出身で、今は音大の大学院に籍をおき、指導者として戻ってきてくれた。艶のある黒髪をきっちりと後ろで束ね、白いブラウスの袖をきれいに肘までまくり上げている。彼女が持つ一本の指揮棒の先端に、この部屋にいる二十数名全員の意識が、すっと吸い寄せられていくのがわかる。
私も、自分の立つべき位置へと意識を戻した。隣に立つのは、ペアを組むソプラノの美紀。彼女の緊張が、すぐ隣にある肌を通して伝わってくるようだった。
私たちの目の前には、それぞれ一台の譜面台が置かれている。ただの譜面台ではない。『ミラー譜面台』と呼ばれるそれは、楽譜を置く黒い板の上部に、横長の鏡がはめ込まれていた。そこに映るのは、自分の顔と、そして向かい合う相手の顔。歌っている最中の、もっとも無防備な表情を、私たちは互いに晒し合うことになる。
そして、譜面台の右下にある小さなサブディスプレイに、青と蜜色、二つの光のインジケーターが、今は頼りなげに瞬いている。
IDS――Intimacy/同期センサー。
私たちの声が、呼吸が、視線が、どれだけ「ひとつ」になっているかを、冷徹な数値で弾き出す装置。
壁に取り付けられた乳白色のランプが、システム起動を示すように、ふわりと明滅した。準備は、整った。
「まずはユニゾンから。A(ラ)の音。四拍吸って、八拍で吐く。息の速度を全員で揃えること。Cohesionを高めて」
綾先輩の指示は、常に的確で無駄がない。Cohesion――集団信頼。IDSが計測する基本指標のひとつ。音価、発音、ブレス、そのすべてが合致することで高まる青い光。それが、私たちのハーモニーの土台となる。
すう、と息を吸う。四秒かけて、肺をいっぱいに満たす。隣の美紀の肩が、ほんのわずかに早く上がりきるのが気配でわかった。違う。もっとゆっくり。もっと深く。心の中で、私は彼女に語りかける。私の呼吸を、なぞって。
指揮棒が、ゆるやかに弧を描く。
「――― a 」
二十数名分の「ア」の音が、ひとつの塊となって音楽室に放たれた。完璧なユニゾン。声がぶつかり合う耳障りな唸りはどこにもない。頬骨が、心地よく微かに震える。この、声帯から放たれた振動が、自分の骨を伝わり、床を伝わり、空気の粒子を震わせ、隣の人の身体にまで届いていく感覚。
壁のランプが、静かに、そして確かに青い光を灯し始めた。譜面台のインジケーターの数値が、緩やかに上昇していく。Coh: 18……19……20……。
「いいわ。その響きを保って。次、課題曲の一番。――千佳、あなたは特にAffectionを意識しすぎないように。自然に」
綾先輩が、私だけを見て言った。
Affection――情動同期。IDSが計測する、もうひとつの重要な指標。恋愛感情や強い親和性を誘発するとされる。インジケーターはその高まりを蜜色の光で知らせてくれる。
「……はい」
私は小さく頷く。意識しすぎるな、と言われても。私の場合、意識しなくてもそれは勝手に起こってしまうのだから。体質みたいなものだった。
曲が始まる。それは、恋の芽生えを歌った、甘く切ないメロディ。私が歌い始めると、美紀の声が、寄り添うように重なってくる。私たちの声は、まるで互いを求めていたかのように、ぴったりと溶け合った。
その瞬間、世界の色が変わる。
壁のランプが、それまでの清廉な青色に、ふわりと蜂蜜を垂らしたような、温かい黄色みを帯び始めた。蜜色の光、Affの光だ。譜面台の数値が、さっきとは比較にならない速度で上昇していく。Aff: 25……31……42……。
共感相。IDSの運用マニュアルにそう書かれている領域。情動同期がそのレベルに達すると、隣にいる誰かに手を差し伸べたくなる、守ってあげたくなる、そんな感情が芽生える閾値。
ミラー譜面台に映る美紀の表情が、和らいでいくのが見えた。瞳が潤み、口元には微かな笑みが浮かんでいる。私も、つられて微笑み返しそうになるのを、ぐっとこらえる。違う。これは、歌がそうさせているだけ。この感情は、このハーモニーが作り出した、美しい幻だ。
「千佳、すごい……」
曲の合間、美紀が恍惚とした表情で囁いた。
「なんだか、すごく……満たされる感じがする」
「ハーモニーが、綺麗だからだよ」
私は、そう答えるのが精一杯だった。本当は、わかっている。この現象のトリガーが、情動同期を高める特性を持った、私の声に含まれる特殊な倍音にあることを。綾先輩の研究データが、それを証明していた。
「ううん、千佳の声だよ。あなたの声が、直接、心に届くみたいで……」
美紀の言葉に、私は何も答えられなかった。
心を、開いてはいけない。完全に同調してしまえば、そこで生まれる感情に身を任せてしまえば、私は私でなくなってしまう。歌が終わった後、その感情の残響に、きっと苦しめられることになる。
曲は、クライマックスへと向かっていく。私たちのAff値は、すでに60を超えていた。蜜月相。軽い接触(ボディタッチ)が心地よく感じられ、相手とひとつになりたいという欲求が高まる領域。
壁のランプは、もう完熟した果実のような、濃い蜜色に輝いていた。音楽室の空気が、熱を帯びてねっとりと肌に絡みつくようだ。綾先輩の指揮が、鋭さを増す。彼女はスコアをコントロールしている。そして、私たちの感情も。
最後の和音が、ホールに響き渡る。長く、美しく。残響が消えきるまで、私たちは互いの目を見つめ続けなければならない。それが、同期指標を最大化するためのプロトコル。
ミラーに映る美紀の瞳が、熱っぽく私を見つめている。吸い込まれそうだ。このまま、彼女の感情に身を委ねてしまえば、どれほど幸せだろう。スコアも、きっと最高点を記録するはずだ。
でも、私は。
――私は、私のままでいたい。
最後の残響が、完全に消える、その一瞬前。
私は、美紀から、そっと視線を外した。
熱に浮かされたような思考に、一本の冷たい芯が通る感覚。繋がっていた回路が、ぷつりと切れる音を、自分の中だけで聞いた。選択的遮断。私が、私を守るための、唯一の技術。
目の前の美紀が、はっと息を飲むのがわかった。譜面台のサブディスプレイで、蜜色の数値が、68から一気に6ポイントも下降する。壁のランプも、一瞬だけ、その輝きを弱めた。
「――はい、そこまで」
綾先輩の、温度のない声が響いた。
指揮棒が、ぴたりと静止している。彼女の視線は、まっすぐに私を射抜いていた。
「千佳、最後、視線を外したわね。IDS、6ポイント下降。もったいない」
静かだが、明確な指摘だった。団員たちの視線が、私に集まる。
「……すみません」
私は、床に落ちる埃の光の帯を見つめながら、かろうじてそう言った。謝罪の言葉を口にしながら、心のどこかで、安堵している自分もいた。また守れた、と。
綾先輩は、一つ、小さなため息をついた。それは、怒りというよりも、もっと複雑な感情の色をしていた。諦めと、ほんの少しの、理解と。
「あなたの特性は、諸刃の剣ね。……わかっているでしょうけど」
「はい」
「いいわ。今日はここまで。――デタッチング・ブレス。三分。しっかり自分に戻って」
その言葉を合図に、私たちは練習を締める決まり文句を口にする。
「ここまで。あなたはあなた、私は私」
そして、ゆっくりと呼吸を整える作業に入った。
吸って、吐いて。
歌によって増幅された感情の昂ぶりを、静かに身体から追い出していく。熱を帯びた空気が、少しずつ冷えていくのがわかる。蜜色の残響が、ゆっくりとモノクロームの世界へと戻っていく。
私は、呼吸を繰り返しながら、視界の隅で、じっとこちらを見つめている視線に気づいた。アルトのパートの、一番端。今日入部したばかりの、まだ誰とも馴染めていない新人。
黒髪のショートカットが印象的な、小柄な子。たしか、名前は――。
目が合った。彼女は、驚いたように、そして何かを見透かすような強い光を瞳に宿して、私を見た。すぐに気まずそうに逸らされたけれど、その一瞬の眼差しが、私の心に、小さな石が投げ込んだような、静かな波紋を広げていた。
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