第四章 PHANTOM OF CRY
第一話 亡霊と春の恋
「嵐」
眠る意識の中。
自分の肩を優しく揺する大きな手の平。
名前を呼ぶ、低い声がいつも、とても暖かいことを知っている。
「岩永クン」
意識が急に浮上する。覚醒。
あ、ダメだ、と思う。
起きたら、きっと、今理解ってること、なにもかも、わからなく―――――――。
「岩永クン?」
肩を軽く叩く自分より少し小さな手に、岩永は目を開けた。
ぼけた表情で何度か瞬きして、緩慢に起きあがり、そのまましばらく固まる。
ああ、寝ぼけてる、と同室の流河は思った。
だって、彼が自分より遅く起きること自体、おかしいから。
のろのろと寝台脇の眼鏡に手を伸ばし、かけてから、流河を見た。
「……あ、おはよ」
「おはよう。今、七時半なんだけど」
「……えっ!? うそマジで!?」
「マジで」
一気に覚醒した岩永は慌てて寝台から降りる。
クローゼットの横にかけてある制服に手を伸ばした。
「うわー、俺にしてはものっそう寝坊」
「俺もびっくりしたよ。なかなか来ないなー、と思ってたらまだ寝てんだもん」
流河は明るく笑う。
岩永と流河の部屋は、寝室が別々にある。
大抵の上位ランクの部屋はみんなそうだ。
右側の寝室と左側の寝室に挟まれたところに机や本棚のある部屋。
流河はそこでのんびり眠気を覚ましていたが、いつも岩永が来る時間を過ぎても彼が自室から出てこないので、流石に起こしに行ったのだ。
寮だし、始業は八時半だからまだ間に合う時刻だが。
「よっぽど夢見がよかったの? 起きたくないような」
彼がコンタクトをつけ終わるのを見計らって言うと、岩永はとても意外そうな表情を浮かべて流河を見た。
「………なんか、ごっつ悪い夢ぽかった」
「ありゃ。なのにうなされなかったの? 変わってるなあ」
「うなされる前にお前が起こしたんやない?」
「あ、そっか」
流河は納得、と手を打つ。
岩永はなんとなくもやもやした胸中を抱えながら、鞄を持って流河の背中を叩いた。
「行こ。あいつら待っとるんやない?」
「うん。そだね」
悪い夢だと思う。
起きた時、とても強い寂寥に押しつぶされそうな気がしたからだ。
夢を覚えていない。
だから、悪い夢だと思った。
食堂に行くと、吾妻や白倉、夕は既に居た。
「珍しいなあ自分」
白倉にからかうように言われて、岩永は苦笑する。
「なんか、変な夢見たんだってさ」
流河が補足しながら、白倉達と同じテーブルの席に着く。
「悪い夢や」
「あ、そうだった」
岩永が訂正したので、白倉と夕は「そんなに?」と興味を微かに惹かれた顔をした。
「覚えてへん」
「おいおい」
即答すると、夕が呆れた。
「でも嫌な感じは残るやろ?」
「ああ」
「やから、悪い夢」
やと思う、と言えば、夕も白倉も「ふうん」と簡単な相づちだけでそれ以上は聞かなかった。
聞かれても岩永自身が覚えていないし。
「もしかして、流河って白倉たちと仲いい?」
吾妻が特別気にするでもなく問うた。
「仲ええで? そこそこ」
「うわあ、きついよ岩永クン。『かなり』でしょ?」
岩永がさらっと言ったので、流河は微妙な顔をして訂正する。
「まあ『かなり』やけど」
「俺は、白倉クンにとって、岩永クンや夕クン。九生クンや時波クンとは違った付き合いなんだよ。
仲の良い友だちだけど、今言った二組ほど密着してないっていうか、一緒に食べる時は食べるけど、食べないときは食べない」
「…なに、そんな丁寧に俺中心に話す?」
流河が律儀に丁寧に、誤解を避ける言い方で、しかも白倉を主軸に話したことに、白倉は怪訝な顔をした。
「吾妻クン向けの説明だから。
誤解されたくないし、俺」
「…しないよ。そんないちいち」
吾妻が眉を寄せて嫌そうにする。流河はからから笑った。
「嘘おっしゃい。今さっき気にした顔してた」
手を振って明るく言われ、吾妻は恥ずかしそうに少し俯く。
すぐにハッとして、隣の白倉を見た。
黒曜の瞳と視線のあった翡翠が、特に驚いた様子もなく瞬きする。
そして、満更でもなさそうに緩く微笑む桜色の唇。
「ふうん」
一言そう呟いて、白倉はメニューを手に取った。
「…………」
吾妻は白倉の口元に眼が釘付けになって、固まっている。赤面した顔で。
「………」
岩永と夕、流河が顔を見合わせて、思案顔で二人をまた見た。
「あ、そうだ。水曜日の戦闘試験な」
「あ、うん」
白倉が普通の口調で話し出したので、吾妻はあからさまに思わず頷いた。
夕と岩永が小さく笑う。
なんだ、その『見とれてました』丸出しの態度は、と言いたげに。
「一ヶ月に一回の組み合わせが来るから、覚えとけ」
「…………?」
吾妻は白倉の言葉の意味がわからず、首を傾げる。
「一ヶ月に一回、戦闘試験の対戦カードが『突拍子もない』ことになるんだ。
普段は、ランクとか今までの対戦経験考慮した組み合わせなんだけど、その時はこれ完全ランダムで決めてるだろ!ってのになるんだよ」
「…あー」
「だから、その日は思いがけないランクが相手になることも多くてな……」
夕の言葉に、流河が遠い目をした。
「…俺さあ、それで一回ジョーカー引いたから、トラウマものだよ未だに」
「んな言い方したら来るで?」
匂わせる流河の語調に、岩永が「やめろ」と制止する。
「ジョーカー?」
「お前も続けんな!」
吾妻が問うと、夕はまた焦る。流河が、警戒した様子なく説明した。
「キミ、この間会ったじゃん?
ほら、穏やかな感じの美人の男。
化野クン」
「…あれが?」
特に怖いイメージはない。確かに鋭かったし、意味深な爆弾を投下したけれど結果的に良い展開になったし。
少なくとも夕が怯えて、流河が遠い目をするような要因は浮かばない。会ったばかりだし。
「いや、彼ね、俺的に『ジョーカー引きました!』って感じの………」
「おや楽しそうだな流河」
話を続ける流河の背後に音もなく立っていたのは、あの日、赤目という後輩の傍にいた優男。
にっこり微笑んで、凍り付いた流河の肩を叩く。
「俺、ジョーカーなんだ」
「…………………」
化野の顔が見える位置に座っている夕が「ほら来た」という青い顔をしている。
「……………そゆとこが思いっきりジョーカーじゃない、かな」
震える声で答えた流河の肩を撫でた白い手は、不意に離れた。
「ああ、そうかもね」
化野は意外にあっさり、普通の口調で頷く。
「ほら、ジョーカーって『最強』カードじゃない。
うん、いい響きだ」
うんうん笑顔で頷き、化野は軽やかな足取りで離れていった。
向こうの席に彼と親しい同級生が座っているのが見える。
足音が遠くなって、沈黙が落ちる。
「…………」
「流河、平気か?」
岩永に問われ、流河は辛うじて頷いた。
「目、見えるか?」
「なんとか」
「手、動く?」
「どうにか」
「味覚ある?」
「…わかんない」
テンポよく繰り返される会話に、吾妻だけが意味不明な顔をしている。
白倉すら、ちょっと真剣な表情だ。
「……?」
腕を組んで、もう一度首を傾げた。
登校して、校舎内を歩いていると、数人、GWの事件を知っている人間たちが吾妻を見て、首を振ったり傾げたり。
女になっていた吾妻の話は、そう広がらないだろう。
数日のことだったし、噂になるほどじゃない。
「今までどんな組み合わせがあった?」
隣を歩く白倉に問うと、彼は少し考えた。
「お前が知ってる名前少ないからなー…」
言っても通じるかな、と白倉は呟く。
それもそうだった。
白倉たちと、九生や時波、そのあたりしか知らない。
「…とんでもなかったって」
「ああ、でも、俺が嵐と当たったことはない」
「…」
吾妻は一瞬沈黙して、「ふうん」と呟くが、どこか暢気だった表情が一瞬で引き締まる。
白倉が不意に声を上げてバランスを崩したからだ。
足下にプリントが落ちていた。気づかず踏みつけたのだ。
吾妻は咄嗟に手を伸ばして抱き留める。
静かに腕の中に収まった細身の身体。しっかりしているし筋肉もあるけど、自分より遥かに華奢だ。
ふあり、といい香りが鼻をくすぐる。白倉の髪が間近にあって、鼻に当たるから。
ふわふわと柔らかい感触の薄い色の髪。これはシャンプーの匂いだろう。
廊下に人の姿はあまりなく、皆気づいていない様子だ。
「…ありがと」
腕の中で、白倉は一瞬詰めた息を吐いて、吾妻の胸元に手を突いた。
離せ、と。
吾妻は手の平に当たる肩と腰の感触を離したくなくて、髪の匂いをもっと感じていたくて、逆に力を込めてしまう。
が、すぐに我に返って白倉の身体を解放した。
「ごめん」
「いや、助けてもらったんこっち。ありがと」
白倉は礼を述べて、頬を赤く染める。
上目遣いに吾妻を見た。
「…腰とか、まだ掴まれとるみたいなんだけど、ばか力」
「…ごめん。痛かった?」
「……別に」
吾妻の心臓はうるさいくらい鳴っている。耳元に心臓があるみたい。
白倉の表情が柔らかくて、恥じらうように赤くて。一瞬視線を落とした白倉の唇を何となく追う。
「…それになんか、……悪くない」
桜色のそれが動いた。そう、甘い声が言う。
視線を上げた白倉の翡翠の瞳が、ぶつかる。
「顔、真っ赤」
鞄を持ち直して、吾妻に背中を向けて、肩越しに振り向いて笑って言われた。
すたすたと歩いていく白倉を、ぽけーっと見送ってしまう。
顔が、身体が熱い。
気のせいだろうか。GWから、白倉が妙に自分に好意的なような。
そんなことを考えていたら背中をいきなり叩かれた。
相当遠慮がなくて、吾妻は呻いてしゃがみ込んだ。
じんじんする。
顔を上げると、九生が立っていた。
「九生、一体なんの…」
「変態すけこましめ」
吾妻の言葉を遮って吐き捨てられた。九生はそのまま歩き出したが、足りないように「けっ」とか言っているのが聞こえた。
「…なにするの………?」
二重の意味で吾妻はびっくりした。
九生があんなに子供じみた手段で自分を罵るというのも解せない。
というか、なんで九生に「変態すけこまし」と言われなければならない。
覚えがない。
床にしゃがんだままぼーっとしていると、目の前に足が現れた。
見上げると呆れた顔の白倉。
「いつまでそこに座ってるんだ」
「…あ、ごめん」
慌てて立ち上がり、鞄を持ち直した。
「…行こう」
白倉が優しく言う。怒った様子などなく。
それに、安堵する。
「ごめんな。呼びに来させて」
「いや、なんかいないと寂しくてな」
普通の口調で落とされた言葉に、吾妻の動きが急ブレーキに軋む。
「…へ」
間抜けな声を上げて、吾妻は片足を上げたままの姿勢で止まった。
それに気づいて、白倉は気まずそうに視線を逸らして、腰に手を当てて、それからゆったりと微笑む。
「あ、やっぱ、お前がこの距離にいるの、いい感じ」
ふんわりという形容詞が似合う。お花のように笑って、白倉は吾妻を見つめた。
気のせいかもしれない。
でも、気のせいじゃない、と思う。確実に。
―――――以前より、白倉が、近い。
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