第二話 それが愛だと肯定して

 教室が夕焼けに照らされている。

 窓際に立つ横顔が、こちらを振り向く。

 柔らかく微笑む顔が、赤く染まる。

「白倉」

 自分が呼ぶと、ふんわりと笑う。

 嬉しそうに。

 足がふらりと動き出して、彼の隣に立った。

 手を持ち上げて、そっと頬を撫でる。心地よさそうに目を閉じる姿が見える。

「白倉」

 もう一度呼んで、顔を傾けて近づけた。

 途中から、夢だと気づいた。

 これは夢だ。

 あれ、でも手の平に感触がある。触れる。リアルに。

 白倉のシャンプーの香りを感じる。

 まさかまた、起こしに来た彼を抱きしめてしまっているのだろうか。

 なら、もうすぐこの夢は覚めて、彼にこっぴどく怒られる。




 アラームの音がする。

 白倉にセットしておけと言われてセットしたが、あまり功を奏さない。

 ぼやけた視界。部屋のどっちを向いているか自分でもわからない覚醒直後の感覚。

 徐々に眼前の輪郭がはっきりしてくる。四肢に力が入るようになる。

 目の前に、睫毛の数まではっきり確認できる距離の、白倉の顔。

 自分の隣。自分の腕の中に収まった身体は、制服姿で、案の定また引っ張り込んでしまったんだろう。

 でも、彼は長い睫毛を揺らして緩慢に瞬きして、起きた吾妻を見つめると、夢の中と怖いくらい変わらず、ふありと綺麗に微笑んだ。

「…おはよ。目、覚めた?」

「………………おはよ」

「うん。もう時間ないからな、はよ起きよ」

 白倉は柔らかい面差しで、吾妻に微笑みかけ、甘く掠れた声で言う。

 抱き寄せられている所為で間近にある吾妻の胸元に、離れるつもりで手を置いた。

 しかし、その手は寝間着代わりのシャツの上を彷徨って、軽く掴む。

 自分からそこに、耳を寄せてくっついた。

「…あ、速い。心臓」

 なんて、あどけない、ぼんやりした声で言うから吾妻は堪らない。

 がばりと起きあがり、横たわったままの白倉を見下ろして、全身真っ赤に染めて寝台の端っこまでバックした。

「……」

「吾妻? 顔、真っ赤」

 まだぼやけた口調でそう言い、白倉は起きあがる。

 柔らかすぎる寝台の上に膝を倒して座り、首を傾げた。

「……そうだよ、これ夢だ!」

 こんなおいしい展開あるはずがない。

 そう思った吾妻はそう結論付けた。

 起きたと思ったが実は今も夢の最中なのだ。

 それなら納得がいく。

「現実だぞ?」

「うんうん。わかってるよ。ちゃんと。

 こんなおいしい展開はない!」

「…現実なんだけど」

 白倉はしきりに「現実だ」と訴えるが、吾妻は聞かない。

 だって、あり得ないから。

 白倉は少し不満そうにしたが、唐突に寝台の上を四つん這いで這って、吾妻の前に来ると、また座って吾妻の頬をつねった。

「…」

「痛くない?」

「…痛いとか以前に、鼻血出そうだよ……」

「…?」

 白倉は小首を傾げた。

 だって、四つん這いで自分に近寄ってこられたら。

 ただでさえ朝なのに。やばいのに。

 白倉は手を離して、足の間のシーツを掴んだ。

 頬を膨らませる。

「…俺が好意的だと吾妻はいやなんだ。

 夢っぽいんだ。現実なのに」

 頬が赤い。可愛らしく拗ねた声と表情。

 吾妻は段々、夢でもいいという気分になってくる。

 だって、そんな可愛らしく、しかも自分に信じてらえないということで拗ねて、ふくれているなんて。

 可愛すぎる。

 吾妻が口元を押さえてにやけると、白倉は不思議そうに吾妻を見上げる。

 上目遣い。本気で可愛すぎてなにするかわからない。

 夢でも、いくらなんでもそこまで好き勝手はまずい。

 それに、そんなことしたら、現実で友人関係の白倉を前にして余計我慢が効かなくなる。

「…」

 白倉は手の人差し指を自分の色づいた柔らかそうな唇に押し当て、考え込むような仕草をしたあと、吾妻の顔を真っ直ぐ真正面から見つめた。

 じっと綺麗な翡翠の瞳に、真剣な表情で見つめられ、吾妻は夢と思っていても平静を保てない。

 そんな吾妻の肩に両手を置き、少し伸び上がって、白倉はちゅ、と吾妻の鼻先にキスをした。

 その、柔らかい唇の感触。いい匂い。夢ではない。

 吾妻は固まった。

「…夢、じゃない?」

「…だから、現実だって言ってるのに」

 白倉は少し身を離して、また拗ねたように少し顔を傾けて見上げてきた。

 夢だから平静を保てたのだ。

 吾妻の中でいろんな糸がぷちん、と一斉に切れた。

「……吾妻。お前純情なんか助平なんかわからん」

 吾妻の百面相を真ん前で見つめて、白倉はそうコメントして寝台を降り、テーブルの上からティッシュを二、三枚とって戻ってきた。

 血が流れる鼻を処置されながら、吾妻は同じ事を思う。


 あなたこそ、天然なのか確信犯なのかわからない。

 本性が、純心なのか、女王様なのか、わからない。




「…白倉が?」

 図書室で、珍しい人物に呼び止められ、岩永は廊下に出た。

 話を聴くと白倉がらみ。なるほど。

 眼前にいるのは、難しい顔をした九生だ。

 いつもの余裕綽々な態度が欠片もない。

「…なんか、あの一件以来、吾妻に対しておかしくないか?」

 九生は白倉本人から、「満更ではないらしい」話を聴いていたが、そう聞いたのはひとえに「信じたくない」からだ。

 白倉は九生にとって、妹か弟で、そういった感情で好きだ。とても。

 だから、悪い虫が妹に近づいたまではいい。

 そいつが妹の傍にいても、妹にその気がないし、芽生えるはずがないから、許していたし、そいつもどうもまともなヤツだから、誠意を信じていた。

 しかし、実際いざそうなると、面白くないどころか、全然納得がいかない。

 許す気でいたのに、あっさり手のひらを返してしまうくらい、凄まじく嫌だ。

 だって、実るならもっと先だと思った。

 なんでこんなはやく。間に合わないじゃないか。


(なんであんな男がええんじゃっ!!)


 という内心を、白倉本人にぶつけたところでしかたないし、岩永はもっと意味がないし、吾妻に言ったらくっつくのを後押ししてしまうし。

 ああホント納得いかない許せない。

「…まあ、『ん?』ってなるわな」

「…マジで?」

 九生の内心には気づかないのか、岩永は普通に言う。

 九生はまだ信じたくない。

「なんちゅうか、満更でもないみたいな」

「…マジで?」

「同じ単語繰り返しとるでお前」

 ちょっと初めて見るくらい本気でテンパった九生に、岩永は内心面白いと思う。

「まだ恋やないみたいやけど、なんちゅうか、恋愛相手として意識したゆうか、それが嫌やないゆうか、一緒に居るんが心地ええ、みたいな感じ?」

 に見える、と言えば、九生は絶望的な顔をした。

 愉快だが、自分も正直、面白くない気持ちもある。

 ふと九生の背後を見ると、こちらに歩いてくる同じ組の生徒の姿。

 手で自分を指さす。あとは任せろ、という風に。

 岩永は頷いて、九生の肩を叩いた。

「まあ、俺が言えるんはそこまで。

 あとは見守るしかないわ」

 それだけ言って、背中を向けて図書室の扉を開ける。

「ちょ、待ちんしゃい…!」

 自分を呼び止める九生の声が途切れたのを確認しながら、図書室の中に足を踏み入れ、ふと視界に入った遥か向こうの棚の傍に、大きな体躯の禿頭の男を見つけて、こっそり苦笑した。

 苦いようで、嬉しいようで、やっぱり痛い。

 自分も懲りないな、と心底思う。

 報われなさなら自分の方が上だ。

 吾妻のことを、身近に感じていたのは、多分自分と同じ「報われない」思いをしているからで、でももうそれは自分だけなのだ。

 彼はもう、自分とは、違うんだ。




 岩永に訴える自分を、時波は肩を掴んで引っ張って、空き教室に雑に放った。

 よろけてから留まり、九生は睨み付ける。

「なにすんじゃ!」

「お前の嫉妬に岩永を巻き込むな」

 ごもっともなことを言われて、九生はぐっと言葉に詰まる。

「じゃが、あれは岩永も関係あるぜよ!」

「岩永はお前ほど許せないわけじゃないだろう」

 またしてもごもっともだ。反論の余地がない。

 むすっと不満そうにして俯く九生を見下ろして、時波は腕を組む。

「お前さんは、嫌やないんか?」

「面白くない」

 時波がいつも通りだから、てっきり彼も吾妻の味方なのかと思ったが、時波はさらっと不愉快そうな声で言う。

「俺の方が吾妻に思い入れもないし、お前ほど買ってない。

 馬の骨にかっさらわれる気分だ」

「…あ、そう」

 九生は微かにホッとする。

 納得いかないのは自分一人じじゃないった。

「だが、吾妻の耳に入るやり方はよせ。

 岩永が馬鹿じゃないなら、吾妻に助言する可能性だってあるんだぞ」

「…あ、そうか」

 思わず納得してから、九生ははた、となる。自分を指さし問う。

「ばか」

「馬鹿だろうな。兄弟馬鹿」

「…ああ」

 時波の淡々とした事実を語る言葉に、九生は納得する。頷いた。

「おとなげないの」

「高校生は子供だ」

「ごもっともじゃ」

「で、どうするんだ?」

 時波は腕を組んだまま、ゆったりと微笑んだ。

 不敵な笑み。

「…お前さんも、同じこと考えたわけか?」

「当たり前だ。俺達の感情の問題以前に、白倉には重大な問題がある」

 時波の静かに意志を灯した瞳を見て、九生は苦笑した。

「吾妻には白倉との交際条件のハードルをあげさせてもらおう」

「俺に任せんしゃい。そういうのは得意じゃ」

 九生は自信たっぷりに、少しだけ辛そうに笑った。




「吾妻?」

 放課後。寮に帰ると、自室に向かったはずの白倉が部屋に顔を見せた。

 鞄を放り投げてソファに寝ころんでいた吾妻は飛び起きた。

 吾妻の胸が激しく高鳴る。

「な、なに?」

 もう既に冷静ではない。言葉がどもった。

「あのな、はっきりもう一回聞いていい?」

「…?」

 自分の前まで歩いてきて、白倉は小首を傾げると吾妻を見上げる。

「吾妻は、俺のことどう思う?」

「……」

 吾妻は固まった。どういう意味だろう。

 いや大体わかるけど、でも彼は十日ほど前に「本気にすんな」とか言った人と同一人物ではないか?

「…困るんじゃない?」

「確認したいから。

 あと、あれだけ言ってキスしたのに今更」

 矛盾してる気がする。でも、その妖艶な微笑みには勝てない。

 やっぱり、女王様じゃないか。

 吾妻はソファから立ち上がって、白倉を真っ直ぐに見下ろした。

「…好きだよ」

「…俺を?」

「当たり前。愛してる」

 目を見てはっきり告げると、白倉は不意に可愛らしく笑った。

 さっきと全然違う。でも、どっちの微笑みも好きだ。

「…我慢しないで、これからそう言ってて? ずっと」

「……」

 しかし、愛らしく囁かれた意味が理解できない。

 震えた声で問うが、全身も震えている。

「…ど、ど、どういう意味………」

「キス以上駄目だけど、全部で好きってアピールして欲しい」

「…あ、え、と」

 顔が熱い。赤いに決まっている。というか、我慢できない。

 なんだそれ。本気にするなって言ったのに。

 やだよ、嬉しい。本気にする。

「そんなこと言ったら我慢できない」

「しないで」

「本気にすんなって言ったのに」

「撤回します」

「…」

 はっきり迷いのない目で言い切られて、吾妻は情けない顔をしてしまった。

 嬉しさと、狂喜と、戸惑いがない交ぜで、手放しで喜びたいし、好きだと言いたいけど、やっぱりあの時のキスのように、「本気にすんな」ってならないか、と。

「お前がこうさせたんだ」

 吾妻の顔を見て、白倉は顔を赤くして拗ねた口調。

「俺を落とすみたいなこと言って…何遍もキスして…だからもう」

 駄々をこねるように、投げつけられた言葉。

 迷いが、薄れて消えていく。

「…まだはっきりしないから、俺に、お前を、同じ意味で好きにさせて」

 自分を真っ直ぐ見上げて、透き通る声で告げられた言葉。

 喉が震えてる。泣きそうだ。嬉しさで。

 夢じゃない? 本当に?

「……、馬鹿。現実なのに」

 吾妻の頬を涙が伝ったのを、白倉は吾妻の表情を確認してから、からかった。

 とても嬉しそうに笑った頬を、涙が落ちる。

 白い手を伸ばして、吾妻の頬を拭う。

 優しく優しく、唇の傍に落とされたキス。

 吾妻は手を伸ばして、優しくそっと抱きしめた。


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