第四話 不可能の花が咲く
「もう、平気か?」
海の見える公園の一角。
白倉は人気のないトイレに向かって、話しかけた。
中から、「うん」というしわがれたような色気のある男の声。
ほどなく、白倉以上に長身の、男の姿の吾妻が姿を見せた。
「じゃあ行くぞ」
「うん」
吾妻は物わかりよく頷いて、白倉を見下ろし、機嫌良く笑った。
白倉はホッとして、「行くぞ」と促し、歩き出した。
先ほど男に戻った吾妻は、幸い女の状態の時から規格外なサイズだったため、服が裂けることは避けられたが、ぴちぴちの女物の服を着たまま街を歩いたら「痴漢」と誤解されるかもしれない。白倉一人でブティックに急ぎ、あつらえの服を何品か買って戻った。
吾妻一人にするのは若干不安だったが、自分と互角に戦う超能力者だ。
大丈夫だろうという信用の方が勝った。
普段は独特のセンスがある吾妻の、今の服装が目に入る。
今の吾妻の服は自分の趣味だから、吾妻らしくない、シックな服装で、それが気になる。なんだか落ちつかない。
「白倉?」
さっきから機嫌のよい吾妻は、白倉を唐突に覗き込んで、首を傾げた。
「具合悪いんじゃない? よかった」
顔色を見て、安堵に頬を緩ませる吾妻の顔。少し紅潮している。
暖かい黒の瞳が自分をじっと見つめる。
好きだ、と歌う視線だ。
「……」
「白倉?」
急に拗ねた表情をした白倉に、吾妻は眼を瞬きして、微かに首をひねる。
「…お前、ずるい気がする」
「は?」
突拍子もないことを言われ、吾妻は目が点になった。
白倉は微かに頬を赤らめ、物憂げにため息を吐く。
「…なんか、いちいちずるい気がする」
「…はあ? うん。そりゃ、戦い方は狡い気もするけど?
テレパスあるし」
「今、読んどらんよな?」
「…、白倉が有能じゃないって言ったでしょ?
鍛え直す気だよ。あまりあてにならないんだね?」
「…まあな」
白倉は一定のトーンのまま、吾妻から視線を逸らしたままで話している。
「…まあいいか」
自分の中で完結させられたのか、白倉は腕を組んで不意な一言。
手を解くと、吾妻の大きな手を掴む。
「帰ろうか?」
唐突に手を握られ、どきんと胸を高鳴らせた吾妻に、白倉は眩しいくらいの微笑みを向ける。
吾妻はおそるおそる、自分の左手の指に触れる細い指を握り返す。
握りつぶさないように、でも離れないようにしっかりと。
白倉は自分を真っ直ぐ見上げて、ふんわりと笑う。
ごくりと唾を飲んで、握っていた指に、自分の指を絡めた。
恋人がするように、指の間に指を通す。
そしてぎゅっと握る。
心臓が破れるくらいの緊張で、白倉を見下ろした。
彼は上目遣いに自分を見て、とても可愛くはにかむ。
「一緒に帰ろう。吾妻」
甘えたような声音に聞こえたのは、自分の耳がおかしいのだろうか。
吾妻は自分の頬がひどく熱いのを実感する。
身体も熱い。
繋いでいる、手が一番熱い。
白倉にばれるかな。白倉の手は冷たい。自分の手がこんなに熱かったら、火傷しないだろうか。
不安が生まれる。でも、どん底で浮かぶ不安じゃない。
幸せすぎて、浮かぶ不安だ。
友だちに言えば、「惚気?」って返されるような不安。
真っ赤になった吾妻を見上げて、白倉は変わらずに笑ってくれた。
街の大通り。
信号を待ちながら、岩永はポケットに手を突っ込んだ。
「大丈夫かな?」
隣にいる夕が不安そうに言う。
「なにが?」
不思議そうに聞いたのは、夕と逆となりに立っていた流河だ。
「嵐が言ってただろ。
吾妻がなんかおかしかったとか」
「あー、言うたっけ」
「おい!」
岩永本人が暢気なことを抜かしたので、夕は頭を叩く。軽いツッコミだ。
「やって、勘違いかもしれんし」
「お前の空気読む術は天下一品」
「あ、うん。そうだね。岩永クンが一番空気読むのうまいもの」
夕と流河の賛辞を、岩永は微妙な顔で受け取り、腕を組む。
「女なんが今頃不安になってきた?」
「白倉クンとのことじゃないの?」
「わからんで?」
岩永はあくまでドライに想像を並べる。
女というのは気分がころころ変わる生き物だ、とどこで学んだのかわからないが。
「あとは、来てもうたとか?」
「なにが?」
「生理」
岩永が普通の顔で言ったので、夕は危うく転びそうになった。
流河も、反対で凄まじく微妙な顔をしている。
「…」
「なん? そん眼。
女の前では絶対言わんぞ。こういうことは」
「いや、わかってるけどさ。さらっと言えちゃうのがすごいなあ…」
流河は遠い眼をする。
「お前ら、女に幻想見過ぎやろ」
「いや、それ関係なくない?」
「似たようなもんや」
岩永は腕を解いて、歩き出す。信号が青になった。
そのタイミングで夕のスマートフォンが鳴る。
夕はポケットから取りだし、画面を見て「優衣や」と呟き、画面をタップする。
「もしもしー?」
『夕! いまどこ!?』
「駅前。お前は?」
『あ、ナイスタイミング!
ちょお止まっとってな。影が動くと飛べへんから!』
「…は?」
夕は疑問符を浮かべて、横断歩道の真ん中あたりで足を止めた。
ここの横断歩道は長い。
「夕?」
「なんか、優衣が飛んでくるって。用事?」
「なにかあったんかな?」
岩永が流河と顔を見合わせる。
優衣は影と影の中を移動する力がある。
吾妻の背後に唐突に現れた時があった。それも、その力による。
赤信号が点いている方向の車道。
一台の大型バイクが止まっている車の間をすり抜けて走ってくる。
夕は視線を向けて、スマートフォンを閉じ、ポケットに仕舞うと、片手を向けた。
直線上に発生した大きな突風がバイクに向かった。
だが、バイクの運転手が放った炎が、風を吹き飛ばす。
「ありゃ、能力者だ」
流河は暢気に呟く。
夕の足下。まだ日の高い空。太陽が伸ばす影が膨らむ。
その中から一瞬で出現した優衣が、手を振るうと動きに従って影が動く。
目線の高さまで伸びた影でバイク上の攻撃を防ぎ、一歩軽く踏み出した。
「うわっ!」
バイクの運転手は男だ。後ろにも乗っていた。やはり男。
バイクがいきなり動かなくなり、勢いで二人は宙に投げ飛ばされた。
バイクの影を踏んでいるのは、優衣の足だ。
「あれなに?」
「NOAに手配書まわってきた。
超能力で強盗傷害数件のアレ。
捕まえろ、やて」
「あー。俺等が今、常時使用許可出てるからか。めんど」
「ていうかギャラリー邪魔じゃない?」
岩永と夕はのんびり、億劫そうに視線を巡らす。
地面に打ち付けられたが、ダメージは少ないのか二人が起きあがる。
周囲の人々は足を止めて、何事だと見ている。逃げない。
NOAの周辺ではこういうことが起こりがちで、そこに住む人々は良くも悪くも馴れている。
「夕」
「へいへい。やっぱ俺か」
優衣の声に、夕はげんなりした。
手を頭上で二回ほど動かし、円を描く。
足下をサークル状に走った突風は、一気に膨れあがって、周囲の人々を包み込んだ。
悲鳴が上がる。
周囲の人々の身体が宙に浮かび、一気にその場から消えた。
「三キロ向こうに飛ばしたから」
「ご苦労さん」
周辺にもう無関係の人々はいない。
夕の風が離れた位置に移動させてしまった。
「あ、うっそ。同格っぽー……」
相手が放ってきた炎を扇子で弾いた流河が、嫌そうに言う。
「え? なに? Aランクレベル?」
「Aランクの二位あたりじゃないかなー」
「げ」
男二人が揃ってタメの姿勢をとった。
顔を引き締め、夕と岩永は目配せすると、構えて同時に攻撃を放つ。
二人の手から放たれたのは同属。風の攻撃。
だが、男二人の周囲を舞う炎に容易く弾かれた。
「…訂正。Aランク最上位!」
「んなこと言うてる場合か!」
引きつりながら岩永が言ったので、怒鳴って優衣は手を大きく振るう。
優衣の足下の影が高速で伸びて、彼らに向かったが、遅い。
二人の手から放たれたのは、吾妻には及ばずとも、巨大な二人分の業火だ。
「うわ、ナイスタイミングじゃないこれ」
「ま、どうにかなるね」
丁度そのタイミングで、交差点に出くわした白倉と吾妻は顔を一瞬見合わせ、笑った。
吾妻が天を指さす。その軌跡を炎が追い、空に走った。
天高く上った炎が、地面に落ちる。
夕たちと男二人の中間地点。
衝撃で男達は吹き飛ばされた。大技を放ったばかりで姿勢が整っていなかった所為もある。
「…あ!」
吾妻は「しまった」という声を上げて、顔を引きつらせた。やばい、と。
今の一撃で男たちが放った業火を相殺する気だったが、一瞬間に合わなかった。
業火が過ぎたあとを、吾妻の炎が撃ったのだ。
「いわな…」
「平気。それより、あいつら」
白倉は悠然と笑んで、男達を指で示す。
倒れている姿。
白倉の指が、くい、と下を向く。
それだけで彼らの動きが封じられたのがわかった。
念動力は重力に似ている。
上から下へ。物を押さえつける力。
白倉のランクは最強クラス。彼らはもう動けない。
吾妻は心臓が嫌に脈打っているのを感じた。
岩永達は。白倉がああ言ったけど、彼らじゃ防げないんじゃないか。
道路を塞ぐように燃えている炎。それが、不意に一点に収束した。
なにかに吸い込まれていく。
手の平だ。炎がほとんど消えてなくなってから気づいた。
炎を消して、吸い込む手の平。
岩永が頭上に上げた手の平だ。
「あれ、もう戻ったんや」
吾妻に気づいて、明るく彼は微笑んだ。
夕も、優衣も、流河も無傷だ。無事だ。
「……うん」
吾妻は安堵よりびっくりして、頷くのが精一杯だった。
「じゃあ、こいつらNOAに転移できる?」
白倉の言葉に、流河が頷いた。
流河の方に歩いていった白倉の背中を、吾妻はぼんやり見送った。
彼がいきなり振り返ったので、驚く。
「ああ、吾妻、さっき、すごかった。流石」
「…あ、」
率直に、眩しい笑顔で褒められて、吾妻は頬を赤らめた。
岩永と流河は顔を見合わせて首を傾げたが、普通に白倉に向き直る。
「初共同戦線だね。意外とチームワークは悪くないんだ」
「これ、夏のチーム戦いけるんやない?」
「夏のチーム戦?」
耳慣れない言葉に吾妻は首を傾げた。
「夏休みにチーム対抗で総当たりバトルやるんよ。
お前、白倉と組んだらどう? 俺も混ざるから」
「あ、俺も」
笑って言う岩永に、夕も手を挙げた。
吾妻はさっきの流河の「初共同戦線」を反芻する。
「…白倉」
「ん?」
「ウェディングケーキ入刀だね! 初共同戦線って!」
いきなりアホなことを言い出した吾妻に、夕と岩永、流河に優衣は鳩が豆鉄砲くらったみたいな顔をする。
吾妻もすぐやっちゃった、と思った。
初めて会ったばっかりの頃の、思ったまま、恋するままに浮かれて口走っていた自分。
学習して、変なこと言わないようにしていたのに、今日の白倉の言葉や約束、笑顔や態度が嬉しくて。
白倉も驚いていたが、ふ、と微笑んだ。
とても、とても、美しく微笑んだ。
「…アホ」
柔らかく、吾妻に向けられた綺麗な声。
吾妻はぽかんと立ち尽くして、背中を向けて歩き出した白倉をただ視線で追う。
怒ってるのではない。馬鹿にするのではない。
ただただ、優しく甘く、自分をたしなめる。
耳から首まで、真っ赤になった。
腰抜けるかと思った。
それくらい、太陽に照らされた彼が美しかった。
翌日からは学校の授業がある。
朝、起きてきた九生は寮の廊下で白倉に会った。
吾妻が元に戻ったとは聞いた。
「災難やったの」
「あ、ああ」
一瞬白倉はなんのことかわからない顔で、ぼんやりとしていた。
「……まあ、吾妻も少し懲りたじゃろ」
「…? なにが?」
「え? 女になって、そんで、お前さんの気持ちの在りように気づいたんじゃろ?」
昨日、出かけていく前に見かけた吾妻は沈んでいた。
女としていくら意識されても、白倉の心にはなんの意味もないと思い知ったんだと思っていたが。
白倉は首を傾げたあと、微かに頬を赤くする。
「…お前、あとでほんと覚えとけ」
自分の顔を手で、ぺし、と軽く叩いて、白倉は参った表情で九生を見る。
「………え? なん? そん反応」
九生は嫌な予感がする。すっごく嫌な予感。
そう、こんな予感は、将来自分に娘が出来て、その娘に彼氏が出来て、お嫁さんにくださいと言い出す直前にしか味わわないんじゃないかという予感。
そんな経験当然ないが、そう思った。直感。
「……………こっから、下り坂な気がする。俺……」
白倉は赤く染まった顔で、弱ったように呟き、九生の傍を通り過ぎた。
九生は真っ青になった。
白倉が立ち去っても気づかず、後にそこを通った時波に額を叩かれるまで立ち尽くしていた。
「時波、俺の白倉が嫁にいく! やばい! 俺は馬鹿じゃ!」
「…なんの妄想電波だ、それは」
それはまだまだ先の話だとしても。
恋を自覚して、意識したら。
あとは、きっと、坂を一気に下りるだけ。
堕ちるなら、こんな恋も悪くないって、思った瞬間、堕ちていた。
やたら大きい癖に、捨てられた犬みたいに不安げにこちらを見る顔。
やられっぱなしが悔しいから、キスしたら、自分の方がやられたみたい。
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