第8話 濁流 ― 受け継がれた牙 ―

 夜が明けても、雨は止まなかった。

 空は低く垂れこめ、地平線の向こうまで灰色に染まっている。

 ぬかるんだ大地の上を、群れはゆっくりと移動していた。


 父の肩にはまだ深い傷がある。

 歩くたびに血が滲み、泥に混じって流れた。

 けれど、その背筋は決して曲がらなかった。

 「グルル……(この程度、かすり傷だ)」

 メスたちは心配そうに見ていたが、誰もそれを口にしなかった。


 俺はその横を歩きながら、心の中で思った。

 ――これが、王か。



 雨季の川は牙をむく。

 普段は細い水の筋に過ぎない流れが、いまや暴れる蛇のようにうねっていた。

 轟音を立てて流れる濁流の向こうには、乾いた草原地帯が見える。

 そこには獲物がいる。

 だが渡るには、あまりにも危険だった。


 「グルル(向こうへ行くのか?)」

 俺が問うと、父は静かに頷いた。

 「ガウ(雨が続けば、草は腐る。ここでは飢える)」

 「グル(でも、この流れじゃ……)」

 「グルル(……選ばねば、全員が死ぬ)」


 父の声は低く、冷たかった。

 王の決断だった。



 群れのメスたちは、不安げにざわついた。

 仔たちは鳴き、母の腹に顔を埋める。

 その中で、リアが一歩前に出た。

 「グル(あたしたちは泳げない。子供たちも沈む)」


 父は彼女の言葉を聞き、しばらく沈黙した。

 そして俺を見た。

 「グルル(レオン、前を見てこい)」


 「ガウ(……俺が?)」

 「グル(そうだ。行ける場所を探せ)」


 父の目には、迷いがなかった。

 それが命令ではなく、信頼から出た言葉だと――俺はすぐに分かった。



 俺は川辺に近づいた。

 轟音。

 水しぶきが顔にかかる。

 足を踏み出すと、流れがすぐに足首をさらう。


 「グルル(くそ……これじゃ子供たちは無理だ)」


 少し上流へ進むと、倒れた木が一本、川をまたいでいた。

 太く、根の一部が岩に引っかかっている。

 流れの勢いに揺れているが、渡れないことはない。


 俺は全力で駆け戻った。

 「ガウ!(こっちだ! 渡れる場所がある!)」



 父が頷き、群れを誘導する。

 メスたちは仔を口にくわえ、一頭ずつ木を渡り始めた。

 水の飛沫が上がるたびに、リアが後方を守るように立っていた。


 俺も反対側に渡り、着地した仲間を迎える。

 「グル(大丈夫か!)」

 「ガウ(子供が……怖がってる)」

 「グルル(俺が引き上げる!)」


 俺は滑りかけた仔の首をくわえ、引き上げた。

 小さな体が震えている。

 背後では、父がまだ向こう岸にいた。



 最後に渡ろうとしたそのとき――。

 轟音。

 木が大きく揺れ、支えていた岩が崩れた。


 「ガウ!(父さん!)」

 「グルル!(行け! 振り返るな!)」


 次の瞬間、木が折れ、父の体が濁流に飲まれた。



 俺は咄嗟に川へ飛び込んだ。

 「ガアアアアッ!」

 冷たい水が全身を打ちつけ、息ができない。

 流れが早すぎる。

 それでも、目を凝らすと父のたてがみが見えた。


 「ガウ!(父さん!)」

 濁流の中、父は流れに逆らうように脚を動かしていた。

 牙を岩に立て、必死に踏ん張っている。


 俺は泳ぎながらその体に体当たりした。

 「グルル(行くぞ! 上だ!)」


 父の肩を押し上げ、二頭で岩の上に這い上がる。

 息が切れ、泥だらけになりながらも、なんとか岸にたどり着いた。



 「グル……(無茶を……したな)」

 父が息を吐きながら笑った。

 「ガウ(放っておけるかよ)」

 「グルル……(そうか)」


 父は立ち上がり、群れを見た。

 メスたちが息を詰めて見守っている。

 リアが子ライオンを舐めながら、涙のような雨に濡れていた。


 「グルル(……よくやった、レオン)」

 その言葉に、胸が熱くなった。


 雨はようやく弱まり、雲の切れ間から光が差し込んだ。

 濁流の音が遠ざかっていく。


 俺は空を見上げた。

 父のたてがみが、朝の光を受けて黄金色に輝いていた。

 その姿を見たとき、俺は心の底から思った。


 ――この背中を、いつか超える。

 いや、必ず超える。

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