第29話029_脅迫

「ま、魔界ですか……?」

「さよう。わしと一緒に魔界に来てもらう。さすれば、この娘たちとその男は助けてやろう」

「僕を……殺したいのではなかったんですか?」


 ブリッツは言葉を交わしながら、廊下の気配を探っていた。

 物音は一切ない。どうやら、このカエル頭の老人は――単身で王城に乗り込んできたようだった。


 ならば、時間はこちらに味方する。


 ブリッツは、できるだけ会話を長引かせようとした。


 その間にも、彼は静かに動いていた。

 仰向けに寝かせたリブロを下から支えるふりをしながら、袖に隠し持っていたナイフを縄に当てる。

 ブリッツは彼に駆け寄る際、机に置かれていた食事用のナイフをこっそり拝借し、袖に忍ばせていたのだ。

 不自然な動作にならぬよう、ゆっくりと刃を上下させる。

 縄の繊維が少しずつ削れていく感触を、指先に感じながら――ブリッツは、会話の糸を切らさぬよう、次の言葉を探していた。


「そんな血生臭いことはせぬよ。まあ、もちろん君が望めば話は別だがね」

「……さっき、『我が主』って言いましたね。あなたの主人は、魔王さんじゃないんですか?」

「……ふむ。長話をしに来たんではないんだがの」


 吸盤のついた指を顎に当て、困ったように老人はつぶやいた。


「話をしたいと言ったのは、あなたでしょう。それに結果として祖国を裏切ることになるんです。僕にもそれなりの理由が必要です」

「わしは、君が魔界に興味があると思ってたんだがのぅ。あの蠅族の少女――君が大人しく言うことを聞いてくれれば、たまには合わせてやってもいい。なんなら儂が仲人になってやろう」

「絶対に嫌です」

「つれないのぅ……」


(その言い方からすると、僕が亡命しようとしていたことは知らないみたいだ)


 コロシアムで試合を見ていたか、あるいは裏切った文官の誰かが、ブリッツたちの情報を漏らしていたのだろう。

 ブリッツはそう結論付けた。


「……僕は勇者を探さなければいけません。魔界に行っている暇なんてありません」

「では、君が快く首を振ってくれる方法を探さねばならんのう……」


 そう言って、老人はくいっとメルの細い首にナイフをそっと押し当てた。


「ま、待ってください! 行かないとは言っていないじゃないですか!それに、暴れる僕を連れていくよりも、ある程度懐柔できたほうが道中楽ではないでしょうか!?」


 ブリッツは早口に捲し立てた。


「……まぁ、一理ある。そうじゃなぁ……。では、取引といこう。君が左手に持っているナイフを、儂に渡してくれれば――もう少しだけ話してやってもよいぞ」

「な、なんのことですか……?」


 ブリッツは目を見開いた。

 老人は無言のまま、ナイフをメルの首に少し押し付けた。


 ブリッツは、ようやく左手をゆっくりと上げた。

 だが――途中でそのナイフを、自身の喉元へと向けた。


「……何のつもりかの?」

「あなたが誰かを傷つければ――僕は、自分の喉を切り裂きます」


 ブリッツの声は震えていたが、目は決して逸らさなかった。


「……何か勘違いしているようじゃがの。わが主は、君を魔界に連れてこいと言っていた。だが、抵抗するようなら――最悪、殺しても良いとも言われておる。実は儂、後者のほうが賛成なんじゃ。なんせ、手っ取り早い」


 ブリッツはカエル頭の老人を睨みつけた。

 額には汗が滲み、喉元の刃の冷たさがじわりと意識に染み込んでくる。


「……殺すことが最善ではないんだったら、少しぐらい話をしてもいいんじゃないですか……?」

「…ふむ」

 

 老人は耳をそばだてた。外から音は一切しない。

 ブリッツは、老人が無言を貫いているのを見て、さらに言葉を重ねた。


「今この状況下で、僕が亡命したことが人族に知られれば――たとえこの戦争が人族の勝利に終わったとしても、僕は人族領には戻れませんっ」

「魔族にさらわれた。そう仲間たちが証言してくれるじゃろう」

「いえ、これは僕個人のプライドの問題です。僕は、人族を救う鍵を持っています。その鍵を持ったまま魔界に行けば――たとえ皆が許してくれても、恥ずかしくて故郷に帰れませんよっ!」

「ふむ……まぁ、言いたいことはわかるがの。だが、会話でそれが解決するのかえ?」

「……だから、あなたの『主』のことを聞いたんですっ。僕が将来仕える人物かもしれないんです。だったら、どんな人物かくらい――知っておきたいんです」

「ふむ。わが主に仕えたいと申すか」

「あなたが話をしてくれれば……ですがね」


 老人は一拍置いて、うなずいた。


「…よい。何が知りたい?」

「あなたを何てお呼びすればいいですか?」

「カワズ。そう呼ばれておるよ」

「カワズさん、『主』っていうのは誰ですか?」

「それは言えん」

「言えない、ということは……魔王さんではないってことですね」

「それも言えぬ」


 ブリッツは眉をひそめた。カワズの口ぶりは核心には触れさせない。

 彼は話題を変えることにした。


「僕が連れて行かれる場所は、どんなところですか?」

「場所が特定できるような情報は、一切話せぬよ。だが、君が暮らしていける環境だということは伝えておこう」

「僕を魔界に連れて行って、魔術で服従させる気ですか?」


 その問いに、カワズは何も答えなかった。

 ただ、吸盤のついた指を顎に当てたまま、じっとブリッツを見つめていた。


「コロシアムの人族の執務室で、僕たちを襲ったのは――あなたたちの組織ですか?」

「それは違う。というか、初耳だ。手が早い奴もいるものだなぁ」


 カワズは肩をすくめるようにして言った。

 

 その言葉が本心かどうかは分からない。

 だが、少なくとも彼の任務は『連れ帰ること』であり、襲撃とは別筋のようだった。


「カワズさんたちの組織ではないんですか?」

「儂が一番槍じゃよ。これは儂のプライドにかけて、真実だと言っておこう」

「魔族の中には、勇者の登場を恐れている人たちもいるのですか?」

「ふむ……難しい質問じゃのう。コロシアムで起こったことを、仲良く皆で話し合ったわけじゃないからのう。だが、反応する者もおるであろうな。……しかしな」

「何ですか?」


 カエル頭の老人――カワズは急に黙りこくった。

 そうして、ブリッツだけでなく、室内の全員に目線を向ける。


「繰り返しになるが、『我が主』は儂にこう命令した。『ブリッツ・ベンデルを連れてこい』とな。

だが、こうも言った――『抵抗するのであれば、殺してもよい』と。要するに、現場の判断に任せるということじゃ。我が主は多くを語らぬが、おそらく『勇者』に恐怖ではなく、興味を持っておるのであろうな」


 カワズは表情を消し、ブリッツに向かって話し続ける。


「だがのう……儂の長年の現場経験から言わせてもらえば――お主ら、相当危険なんじゃよ」


 カワズは周囲を見渡す。


「コロシアムの戦いを見ておったがのう。お主らは全員、機転が利き、若く、才能もある。同族であったなら、育ててやりたいぐらいじゃ。だからこそ危うい。『勇者』の話は抜きにしてもな。今のうちに摘み取った方が良いのかもしれぬ」

「なっ、命令に背くんですか!?」

「……儂の勘が、そう言っておる」


 そう言って、カワズは再びメルの首に刃を当てた。


「やめてくださいっ!」


 ブリッツが叫んだ、ちょうどその時――


「ゲホッ、ゲホゲホッ!」


 メルが大きく咳き込んだ。

 カワズは慌てて刃を離す。


「おっと……意図せず殺すのは、わしのプライドが許さぬ」


 だが、メルの咳は止まらなかった。


「……く、薬……左の……ゴホッ! ポケットにある……!」


 メルが咳き込みながら、かすれた声で告げる。


「仕方ないの」


 カワズはそう呟くと、ナイフを右手に持ち替え、メルのポケットを探った。

 そして、赤い丸薬を取り出す。

 甘い香りが室内に漂う。


 ブリッツもアテナも、帰りの旅路で嗅いだあの匂いだった。

 その香りに、カワズは顔をしかめる。


「これは……やれぬな」

「なっ、ちょっと! カワズさん、なんでですか!?」

「……毒薬じゃ。誘うような、独特な甘い香り」

「思念草……」

「知っておったのか。お主ら、もしや加害者側か?」


 カワズはアテナの言葉にそう返した。


「この匂いの発生源は、『思念草』と呼ばれる植物じゃ。これを食べると、魔力や体が少しずつ弱っていき――やがて死に至る。このお嬢さんのように小さい子が服用すれば、待っているのは穏やかな死だけじゃ。君がおった場所と、これをなぜ持っているかを考えると、同情は禁じ得ないが……今は自死は許さぬ」


 カワズは丸薬を見つめながら、静かにそう呟いた。


「えっ!? な、なんだ!?」


 突如、ブリッツが叫んだ。

 その言葉にカワズが反応して前を向いた。

 そして――


 ドガンッ!


 重い音とともに、カワズの体が吹き飛ばされた。

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