第2話

 優の視界で、彼が信じた世界が、ひび割れていく。


 それは、モニターに映し出された裏切りだった。

 一・八五対一のアスペクト比。

 完璧なフレーミングで切り取られたその映像が、目の前に立つ現実の裏切り者と、ぐにゃりと歪んで重なった。


「優……?」


 日葵の声が、やけに遠く聞こえる。

 心配そうな、それでいて甘えを含んだ声色。

 普段なら、その声を聞くだけで心が和らいだはずだった。


 だが今は、鼓膜を劈く不快なノイズでしかなかった。


 優は何も言わなかった。

 言葉を発するだけの気力が、身体のどこにも残っていなかった。


 ただ、ゆっくりと椅子を回転させる。

 モニターの画面が、日葵の目に直接映るように角度を変えた。


 それだけだった。


「……え?」


 日葵は、優の奇妙な行動に小首を傾げた。

 そして、その視線が自然とモニターへと吸い寄せられる。


 そこに映っていたのは、満月の光を浴びながら、親友の腕の中でうっとりと目を閉じる、自分自身の姿だった。


 次の瞬間、日葵の顔から、すっと血の気が引いていくのが分かった。

 春の陽だまりのような暖かな色をしていた頬が、真冬の雪のように白く凍りつく。

 大きく見開かれた瞳が、信じられないものを見るように細かく震えていた。


 カサリ、と乾いた音がして、彼女の手からコンビニの袋が滑り落ちた。


 プラスチックの容器に入った二つのコーヒーが、床に鈍い音を立てて転がる。

 温かいはずのそれは、もう誰の心も温めることはない。


「あ……これ、は……」


 日葵の唇が、か細く動く。

 何かを弁明しようとしているのか、あるいはただの悲鳴か。

 声にならない音が、掠れて漏れ出るだけだった。


 空気が鉛のように重い。

 優はただ黙って、彼女の反応を見ていた。


 どんな言葉を投げつけられるのだろう。

 どんな言い訳を聞かされるのだろう。


 心の一部が、まだどこかで奇跡を信じようとしていたのかもしれない。


「あれは演技の練習だったんだよ」という、あまりにも馬鹿げた嘘にさえ、縋りたかったのかもしれない。


 だが、その微かな希望を打ち砕くように、部室のドアが再び、今度はもっと軽快な音を立てて開かれた。


「おーい、二人ともまだいたのか。日葵も来たんだな。編集、差し入れか? サンキュ」


 そこに立っていたのは、全ての元凶――優が右腕と信じていた、親友だった。

 彼は、この世の終わりのような部室の惨状に気づかず、能天気な笑顔を浮かべていた。


 しかし、その笑顔も長くは続かない。

 凍りついたように立ち尽くす優と、顔面蒼白の日葵、そして床に転がったコーヒー。

 彼の視線は、やがて優の背後にあるモニターへと吸い寄せられた。


 画面には、まだ二人のキスシーンが静止画のように表示されている。


「……あぁ」


 親友の口から漏れたのは、驚きでも焦りでもなく、まるで「ああ、ついにこの時が来たか」とでも言うような、どこか腑に落ちた短い声だった。

 彼の表情から、能天気な仮面が剥がれ落ちる。

 代わりに現れたのは、冷徹な計算と、優越感が混じり合った、優の知らない顔が晒されていた。


 三人の人間が、狭い部室にいる。

 だが、そこに言葉はなかった。


 ただ、モニターの冷却ファンが回る低い音が、耳障りなほど大きく響いている。


 沈黙を破ったのは、優だった。


 喉の奥から絞り出すように、乾ききった声で、ただ一言だけ。


「……いつからだ」


 その問いは、日葵に向けられたものだった。

 しかし、彼女が何かを言う前に、親友が一歩前に出て、まるで日葵を守るかのように優の前に立ちはだかった。


「去年の夏、合宿の頃からだ」


 悪びれる様子もなく、彼は言い放った。

 その顔には、隠しきれない征服者の笑みが浮かんでいた。


 夏合宿。

 それは、優が脚本の執筆に追われ、ほとんど部屋に籠りきりだった時期だ。

 日葵が寂しがっているだろうとは思いつつも、良い作品を作るためだと自分に言い聞かせていた。

 その裏で、こんなことが起きていたというのか。


「なんで……」


 声が震える。

 怒りなのか、悲しみなのか、自分でも分からない感情が渦巻いていた。


「なんで、だと? 優、お前こそ分かってないのかよ」


 親友は、心底から呆れたというように溜息をついた。

 その態度が、優の神経を逆撫でする。

 彼は優の目をまっすぐに見据え、嘲るように続けた。


「お前はいつだってそうだ。見ているのはカメラの向こう側だけ。自分の頭の中にある『完璧な映画』だけだ。目の前にいる日葵が、どんな顔をしているかなんて、一度でもちゃんと見たことがあったか?」


「なっ……!」


「お前の映画に出てくる日葵は、ただの記号だ。『ヒロイン』っていう役割を押し付けられた人形だよ。でもな、俺が撮る日葵は違う。俺のカメラの前でだけ、こいつは本当に笑うんだ。本当に、輝くんだよ」


 それは、優が心のどこかで気づいていた、しかし認めたくなかった事実だった。

 自分の知識や理論が、生身の日葵の魅力を引き出しきれていないのではないかという焦り。

 その痛いところを、親友は的確に、そして容赦なく抉ってくる。

 彼の言葉の端々には、優への長年の劣等感と、それを乗り越えた優越感が滲み出ていた。


「ごめん……優……」


 親友の背中に隠れるようにして、日葵がようやく口を開いた。

 その声は涙で濡れていた。


「優の映画は……すごかった。尊敬してた。でも……なんだか、いつも置いていかれるみたいで……寂しかったの」


 寂しい……?

 優の脳裏に、日葵の笑顔や、共に映画について語り合った日々がフラッシュバックする。

 それが、ただの彼の独りよがりだったというのか。


「あなたの撮りたい『本物』って、私には難しすぎた。もっと、ただ……私だけを見てほしかった。綺麗に撮ってほしかった。ヒロインとして、愛してほしかったのよ」


 その言葉は、優の胸に深く突き刺さった。

 愛していなかったわけがない。

 彼女こそが自分のミューズであり、最高のヒロインだと信じて疑わなかった。

 だが、その想いは、彼女には全く違う形でしか届いていなかったのだ。

 優は、自分が彼女を「被写体」としてしか見ていなかったことを、今、突きつけられていた。


「そんな時……彼は、私を見てくれた」


 日葵は、親友の背中にそっと手を添える。

 その仕草が、二人の関係の深さを雄弁に物語っていた。


「『日葵こそが最高の被写体だ』って……『俺なら、お前を世界で一番魅力的に撮れる』って、言ってくれたの。彼の前だと、私、息ができた。ただの女の子でいられたの」


 優の視線は、日葵の潤んだ瞳から、親友の冷たい笑みへと移った。

 親友は、勝利を確信したような目で、優を見下ろしていた。


「あなたの映画は、頭でっかちで、私を置き去りにした。だけど、彼のカメラの前でだけ、私は感情を取り戻せる。人を感動させる本当の才能は、彼にしかないんだよ」


 最後の言葉が、決定的な一撃となった。


 才能。

 優が誰よりも渇望し、追い求めてきたもの。

 自分の全てを懸けてきた映画作りにおいて、最も残酷な評価。

 それを、愛した女と、信じた親友から、同時に突きつけられた。


 視界がぐにゃりと歪む。

 頭の中で、何かがぷつりと切れる音がした。

 怒りや悲しみといった、生々しい感情が、彼の内側からごっそり抜け落ちていく。

 残ったのは、焼け野原のような虚無感だけだった。


「……そうか」


 優の口から漏れたのは、そんな乾いた呟きだった。

 ああ、そうか。

 俺が間違っていたのか。

 俺の映画は、俺の愛は、独りよがりの自己満足でしかなかったのか。

 この二人にとっては、退屈で、価値のないガラクタだったのか。


 滑稽だ。

 あまりにも、滑稽じゃないか。


「……ははっ」


 思わず、乾いた笑いが漏れた。

 それは、絶望しきった男が、ようやくたどり着いた境地のような、空っぽの響きだった。


「優……?」


 日葵が不安げな声を出す。

 だが、もう優の耳には届かない。


 優はゆっくりと立ち上がると、無言で自分のデスクに向かった。

 そして、いつも使っていたノートPCの電源を落とし、コードを抜いてバッグに仕舞い始めた。


 次いで、壁にかけてあった愛用のカチンコ。

 脚本を書き殴ったノート。

 引き出しの中に入れていた私物のハードディスク。


 一つ、また一つと、自分の痕跡を消していくように、淡々と荷物をまとめていく。

 その一つ一つが、彼がこの部活に注ぎ込んできた情熱と時間の重みを語っていた。


「おい、優……何してんだよ」


 親友が訝しげに声をかける。


 優は、その声も無視した。

 ただ黙々と、作業を続ける。

 この場所に、自分のものは何一つ残したくなかった。

 まるで、過去の自分を切り離すかのように。


 全ての荷物を詰め終えた優は、重くなったリュックを背負った。

 そして、初めて二人の顔をまっすぐに見据えた。

 その目は、凪いだ湖面のように静かで、底なしの闇を湛えていた。


「この部活、俺が作ったんだけどな」


 ぽつり、と呟く。

 誰に言うでもない、独り言のような言葉だった。


 映画が好きだという、ただそれだけの情熱で、同好会から始めた。

 一人、また一人と仲間を集め、機材を揃え、先生を説得して部に昇格させた。

 この部室の壁も、床も、自分たちでペンキを塗った。

 隅々にまで、思い出が染みついているはずだった。


 だが、それももう、どうでもいい。

 彼が築き上げた全てが、今、無価値なものとして彼の前から消え去ろうとしていた。


「あとは好きにしろよ。お前たちの『傑作』とやらを、好きなだけ撮ればいい」


 優はそう言い捨てると、二人に背を向けた。


「待って、優! どこ行くの!?」


 日葵の悲鳴のような声が背中に突き刺さる。

 しかし、優は足を止めなかった。


 ガチャリ、と音を立ててドアノブを回す。

 扉を開けた先に広がるのは、見慣れた放課後の廊下。

 だが、今の優にとっては、自分が今までいた世界とは完全に断絶された、異次元への入り口のように見えた。


 一歩、足を踏み出す。


 背後で、親友が冷ややかに言い放つ声が聞こえた。


「行かせてやれよ、日葵。あいつはもう、いらないだろ。俺たちの物語には」


 その言葉が、優の心を完全に凍てつかせた。

 まるで、最後の一撃。

 これまでかろうじて保っていた彼の自我が、粉々に砕け散る音を聞いた気がした。


 優は、一度も振り返ることなく、部室のドアを静かに閉めた。


 パタン、という乾いた音が響き渡り、優は完全に一人になった。

 自分の手で作り上げた王国から、追放された王様。

 いや、初めから王様などではなく、ただの道化だったのかもしれない。


 ふらふらと、足元がおぼつかない。

 壁に手をつき、どうにか身体を支える。

 息が苦しい。


 まるで、真空の宇宙に放り出されたようだ。

 重力も、空気も、意味も、全てを失って、ただ漂うだけの存在になった気がした。


 廊下の窓の外には、藍色に染まり始めた空が広がっていた。

 街の灯りが、星のように瞬き始めている。

 綺麗だ、と、頭のどこかで冷静な自分が呟いていた。

 こんな時でさえ、光と影のコントラストに美しさを見出してしまう自分が、ひどく醜悪なものに思えた。

 映画に魅せられた、呪われた自分のようだ、と。


 もう、映画なんて撮れないかもしれない。

 いや、もう二度と撮りたくない。

 あれほど愛したものが、今は呪いのように重くのしかかる。

 彼の内側にあった、映画への情熱の炎は、完全に燃え尽きていた。

 残ったのは、冷たい灰だけだった。


 優は、まるで亡霊のように、力なく廊下を歩き始めた。

 どこへ向かうという当てもない。

 ただ、この場所から一刻も早く消え去りたかった。


 その時、ふと視線を感じた。


 廊下の突き当り、階段の踊り場の薄暗い影の中に、誰かが立っている。

 小柄な人影。

 黒いボブカットの、後輩の女子生徒だった。

 いつも部室の隅で、静かに本を読んでいるか、一人で絵コンテを描いているような子だ。

 名前は、確か――。


 相葉寧々。


 彼女は、ただ黙って、こちらをじっと見つめていた。

 その感情の読めない瞳が、まるでレンズのように、打ちのめされた優の姿を捉えている。

 いつからそこにいたのだろう。

 もしかして、全部、聞こえていたのだろうか。


 だが、今の優には、それを気にする余裕すらなかった。

 彼は寧々の視線から逃れるように顔を俯かせ、その横を通り過ぎる。


 二人の間に、言葉は交わされない。


 すれ違う一瞬、優の鼻腔を、微かにインクと紙の匂いが掠めた。

 それは、物語が生まれる前の、静かで純粋な匂いだった。

 だが、その匂いさえも、今の優にとっては心を苛むだけのノイズでしかなかった。

 彼は足を速め、逃げるようにその場を去っていく。


 後に残された寧々は、優が消えていった廊下の先を、瞬きもせず、ただ静かに見つめ続けていた。

 彼女の手には、使い古されたスケッチブックが、強く握りしめられていた。

 その表紙には、鉛筆で描かれた、どこか悲しげな瞳のキャラクターが描かれていた。

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