第3話
コンクリートの階段を、一つ、また一つと下りていく。
自分の足音だけが、やけに大きく、無機質に響いていた。世界から、まるで音が消え失せてしまったかのようだ。
さっきまで部室で繰り広げられていた罵声も、涙も、言い訳も、すべてが嘘だったかのように遠い。
階段を下りる途中、薄暗い踊り場に、立ち尽くす人影をぼんやりと認識した。相葉寧々の、感情の読めない瞳が脳裏をよぎる。
すれ違った瞬間に感じた、インクと紙の匂い。物語が生まれる前の、混じり気のない純粋な匂い。
だが、その記憶さえも、今の天音優の心には何の慰めももたらさない。
むしろ、創作という行為そのものへの、底知れない嫌悪感を掻き立てるだけだった。
物語なんて、クソ喰らえだ。
昇降口の冷たい空気が、火照った頬を撫でる。
優は機械的な動作で上履きを脱ぎ、ローファーに足を入れた。
靴紐を結ぶ指先は、自分のものとは思えないほど冷たく、動きが鈍い。まるで意思を失った人形のようだった。
外に出ると、傾きかけた西日が目に突き刺さった。あのプライベートフィルムで見た、坂田日葵を美しく照らし出していた光と同じ、甘美で、忌まわしい色だ。
優は思わず目を細め、逃げるようにアスファルトの道を歩き始めた。
いつもなら映画のワンシーンのように見えていたはずの、田舎町のありふれた風景。
電線に止まるカラスの群れも、風に揺れる田んぼの緑も、今はただの色の集合体にしか見えない。
フレームも、アングルも、構図も、何も思い浮かばない。
頭の中が、空っぽだった。
いや、空っぽなのではない。無理やり、空っぽにしているのだ。
少しでも何かを考え始めれば、あの映像が、あの声が、あの裏切りが、洪水のように押し寄せてきて、立っていることさえできなくなりそうだった。
自宅に着くと、母親の「おかえり」という声も聞こえないふりをして、一直線に二階の自室へ向かった。
ドアを閉め、鍵をかける。そこは、優が作り上げた、彼だけの聖域のはずだった。
壁には、敬愛する監督たちの映画のポスターが貼られている。スコセッシ、ゴダール、ジム・ジャームッシュ……。
本棚には、映画理論書やシナリオ集、そして数えきれないほどのDVDとブルーレイが整然と並んでいた。
かつては宝物だったそれらが、今はすべて、自分を嘲笑っているかのように見えた。
知識ばかりを詰め込んで、頭でっかちになって。
結局、一番近くにいた人間の心さえ、何も見えていなかった。
カメラのレンズを通して世界を見ていた気になって、ファインダーの外にある現実から、目を逸らしていただけだったのだ。
「カメラの向こう側しか見ていない」
親友の言葉が、脳内で再生される。
その通りだった。反論の余地もない。
優は壁の『タクシードライバー』のポスターに目をやった。孤独なトラヴィスが、虚ろな目でこちらを見つめている。
お前も同じだと、言われている気がした。
ベッドに倒れ込む。制服のまま、シーツに顔を埋めた。
ポケットに入れていたスマートフォンが、ずっと前から震えていたことに気づく。
部室を飛び出してすぐに電源を落としたはずだったが、いつの間にか再起動していたらしい。
画面には、不在着信とメッセージの通知が何十件も溜まっていた。
そのほとんどが、坂田日葵と、あの男からだった。
『優、ごめん』
『話を聞いて』
『誤解なんだ』
『お願いだから電話に出て』
日葵からの、意味のない文字列の羅列。
優は何も感じなかった。怒りも、悲しみも、一周して、今はただの虚無が心を支配している。心は鉛のように重く、感情の沸点すら見失っていた。
彼は全ての通知をスワイプして消すと、再びスマホの電源を落とした。
もう、誰の声も聞きたくなかった。
その夜は、ほとんど眠れなかった。
目を閉じれば、瞼の裏で、あの忌まわしいフィルムが自動的に上映される。
夕陽に照らされた日葵の横顔。無邪気に笑う声。
そして、彼にだけ向けられる、甘く蕩けるような眼差し。優が一度も引き出せなかった、彼女の本当の表情。
それを撮ったのが、自分の右腕だと信じていた男だったという事実。
映像の最後に映し出された、二人の長いキスシーンが、何度も何度もリフレインする。
そのたびに、心臓を直接握り潰されるような激痛が走った。
夜が明ける頃、優はぼんやりとした頭で一つのことだけを決めていた。
全てを、終わらせよう、と。
翌日、優は朝のホームルームが終わるとすぐに、一枚の紙を手に職員室へ向かった。
必要事項を記入した、ただの事務的な書類。
退部届。
昨日までは、彼の人生そのものだった場所との決別を告げる、あまりにもあっけない紙切れだった。
「――本当に、いいのか、天音?」
映画研究部の顧問である、古文の教師が困惑と、ほんの少しの悲しみを滲ませた表情で優を見た。
彼は創部からずっと優の情熱を理解し、応援してくれていた数少ない大人だった。
「お前が立ち上げた部活じゃないか。次の映画祭で、お前がどんな作品を見せてくれるのか、ずっと楽しみにしていたんだぞ。何かあったのか? 仲間と喧嘩でもしたのか?」
「いえ……」
優は力なく首を振る。喧嘩、という言葉の、なんと空々しく響くことか。
「ただ、もう、興味がなくなっただけです」
嘘だった。興味がなくなったわけじゃない。憎いのだ。映画も、カメラも、仲間だと思っていた奴らも、何もかもが。
「映画は、もう撮りません。金輪際」
その言葉は、自分自身に言い聞かせるための呪いだった。
顧問は何かを察したように、それ以上は何も聞かず、ただ深くため息をついて、退部届を受け取った。
「……そうか。お前の決めたことなら、俺が何を言っても無駄か。だが、いつでも戻ってこい。お前の席は、いつだってここにある」
職員室を出る。解放されるかと思った。
だが、胸に広がるのは、より一層深い喪失感だけだった。自分の手で、最後の繋がりを断ち切ってしまった。
これで本当に、独りになった。
教室に戻る気にはなれず、足は無意識に、昨日まで自分の居場所だった場所へと向かっていた。
特別棟の三階。突き当りにある、映画研究部の部室。
ドアの前まで来て、優ははっと我に返り、足を止めた。
中からは、人の声が聞こえる。楽しそうな、笑い声が。
もう、自分には関係のない場所だ。
立ち去ろうとした、その時だった。聞こえてきた会話に、優の足はコンクリートに縫い付けられたように動かなくなった。
「ていうかさ、優先輩、辞めちゃったらしいよ。ぶっちゃけ、まじで?」
「まじまじ。さっき顧問から連絡あったってさ」
後輩の男子部員たちの声だ。
「まあ、正直、よかったかもな」
「だよな。悪い人じゃなかったけどさ、ぶっちゃけ、優先輩の映画、難しすぎてよくわかんなかったんだよな」
「そうそう。理屈ばっかで、こっちの気持ち、全然わかってくれてない感じだったし。『これはスコセッシへのオマージュで』とか『ゴダールの引用が』とか言われても、なんか鼻についたっていうか。こっちはただ映画楽しみたいだけなのにさ」
心臓が、嫌な音を立てて軋んだ。全身の血が、急速に冷えていくような感覚。
「その点、神木先輩の作品のほうが、断然分かりやすいよな。見てて純粋に楽しいっていうか」
「うん。映像も綺麗だし、センスあるよね。日葵先輩だって、神木先輩の演出だと、全然別人みたいに生き生きしてるし」
女子部員の、悪意のない、だからこそ残酷な声が続く。
「わかるー。優先輩の映画だと、日葵先輩、いつも顔がこわばってたっていうか。無理してる感じ、あったよね」
「だよねー。今はもう、すごく伸び伸びしてるって感じだもん。やっぱ、監督との相性ってあるのかな」
ああ、そうか。
そうだったのか。
みんな、そう思っていたのか。
俺が作り上げたこの場所で、俺の映画は、退屈で、独りよがりで、誰も望んでいないものだったのか。
日葵だけじゃない。ここにいる全員が、俺を、俺の作る物語を、否定していたのか。
息が、できなくなった。
世界から酸素が消えてしまったかのように、喉がひきつる。耳鳴りが酷い。キィンという高音が頭蓋の奥で響き渡る。
聞こえてくる声が、まるで鋭い針のように鼓膜を突き刺してくる。
――ノイズだ。
全部、ノイズだ。
聞きたくない。何も。
優は震える手で、通学カバンの中から愛用のヘッドフォンを取り出した。ソニー製の、黒いワイヤレスヘッドフォン。
少し値は張ったが、その強力なノイズキャンセリング機能が気に入っていた。世界から自分を切り離すための、唯一の道具。
それを、両耳に装着する。
そして、右のイヤーカップにある電源ボタンを長押しした。
ピッ、という電子音と共に、世界が変わった。
さっきまで脳を揺さぶっていた後輩たちの声が、廊下を通り過ぎる生徒たちの足音が、遠くから聞こえる体育の授業の喧騒が、嘘のように、すっ……と消え去った。
訪れたのは、完全な静寂。
サイレンス。
残響一つない無音の世界に、自分の荒い呼吸音と、ドクン、ドクンと早鐘を打つ心臓の鼓動だけが生々しく響いている。
これでいい。
これで、何も聞こえない。誰の声も、届かない。
優は踵を返し、その場から逃げるように歩き出した。
部室のドアに背を向け、自分が築き上げた全てに、別れを告げた。
誰にも見つからない場所に行きたかった。
優は校舎の裏手にある、今は使われていない焼却炉の陰にたどり着いた。
コンクリートの壁に背中を預け、ずるずるとその場に座り込む。
ヘッドフォンは、つけたまま。
膝を抱え、空を見上げる。雲一つない、抜けるような青空が広がっていた。
だが、その青さも、今の優の心には届かない。まるで色褪せたポラロイド写真のように、現実感がなかった。
これから、どうすればいいのだろう。
映画を失った自分に、何が残っているというのだろう。
情熱を注ぐ対象も、分かち合う仲間も、愛する人も、信じていた親友も、何もかも一度に失った。
空っぽの身体だけが、ここに在る。
どれくらいの時間が経ったのか。
日は少しずつ傾き、影が長く伸び始めていた。
その時、制服のポケットの中が、ぶるぶると震えた。
昨夜からずっと電源を落としていたスマートフォン。いつの間にか、また起動させてしまっていたらしい。
震えは、執拗に続いている。誰かからの着信だ。
鬱陶しい。そう思いながらも、優はポケットからスマホを取り出した。
画面には、見慣れた名前が表示されていた。
『坂田 日葵』
その三文字を見た瞬間、呼吸が止まる。
日葵の顔が、脳裏に鮮明に浮かび上がった。
屈託なく笑う顔。拗ねた顔。
そして、涙を流しながら「ごめんなさい」と繰り返した、あの顔。
どの顔も、もう信じられない。
彼女の言葉も、涙も、全てが、あのフィルムの前では色褪せた偽物に過ぎなかった。
まだ、何か話すことがあるというのか。
何を言われても、もう響かない。
何を弁明されても、許すことなどできはしない。
優は、画面の緑色の応答ボタンには目もくれなかった。
いや、一瞬だけ、指が、反応しようとした。
だが、それを強烈な嫌悪感が打ち消す。
――もう、二度と、その声は聞きたくない。
ただ、静かに、赤い拒否ボタンに指を置く。
そして、ゆっくりと右にスライドさせた。
着信音が途切れ、画面が元のロック画面に戻る。
だが、優の指は止まらなかった。
そのまま、本体側面にある電源ボタンを強く、長く押し続ける。
やがて画面に「電源を切る」という表示が現れる。
ためらいなく、それをタップした。
画面が、ふっと暗転する。
真っ黒な液晶ディスプレイに、一瞬だけ、自分の顔が映り込んだ。
そこにいたのは、知らない人間だった。
目の下の隈。血の気の失せた唇。
そして、光を失い、絶望の淵を覗き込んでいるかのような、虚ろな瞳。
それは、映画の主人公でも何でもない、ただの、全てを失った抜け殻だった。
優は、その顔から目を逸らすように、スマホをポケットに押し込んだ。
そして、再び膝を抱え、ただひたすらに、ノイズのない静寂の中で、終わり続ける世界に身を沈めていた。
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