恋人と親友が作ったNTR映像は傑作だと?――才能も居場所も奪われた俺が、信頼できる後輩と撮る映画で、お前らの偽物を完膚なきまでに叩き潰す!

ネムノキ

第1話

 放課後の喧騒は、もう遠い過去のものだった。


 深夜の校舎は、巨大な生き物の骸のように静まり返っている。その静寂に満ちた腹の底、特別棟の三階。映画研究部の部室だけが、青白い光を外界に漏らしていた。


 天音優は、編集ソフトのタイムラインを睨みつけていた。指先でマウスホイールを微調整する。


 画面には、恋人である坂田日葵の笑顔が映し出されていた。夏の盛りに撮った、ひまわり畑でのワンシーンだ。


 カットを繋ぎ、色調を補正する。


 微かな環境音を重ねていく作業は、地味で、果てしなく続く。しかし優にとって、この時間こそが、何物にも代えがたい「創造」の瞬間だった。


 ふと、優は過去の撮影を思い出した。


「もっと感情を。目はもっと遠く、そう、まるで記憶を探るように」


 指示された日葵は困ったように微笑み、言われた通りに遠くを見つめた。だが、優の求める「ヒロイン」の表情とはどこか違う。もっと奥深い、真実の感情が欲しかった。


「違うな……」


 優は独りごちた。


 スコセッシやゴダールといった巨匠たちの知識ばかりを振りかざし、目の前にいる生身の彼女を見ていなかったのは、きっと自分の方だ。彼女を役柄に閉じ込めようとしていたのは、自分だった。


 この映画研究部は、優が立ち上げたものだ。


 入学当初、映画を語れる仲間が一人もいなかったこの田舎町で、彼は顧問を説得した。なけなしの機材をかき集め、たった一人で活動を始めたのだ。


 その情熱が人を呼び、今では十数人の部員を抱えるまでになった。


 右腕と信じる親友。


 そして、部のミューズであり、優の恋人でもある日葵。


 全てが順調だった。


 いや、順調だと思い込んでいた。


 編集作業も佳境に入り、優はBGM用の音源を探すため、共有サーバーのフォルダを開いた。部員全員がアクセスできる、いわば部の心臓部だ。


 この作品が完成したら、真っ先に親友に見せて意見を聞こう。きっと、いつものように的確なアドバイスをくれるだろう。


 撮影データ、脚本、ロケハン資料……。


 乱雑に放り込まれたフォルダ群を整理するのは、部長である優の役目でもあった。


 いくつかの不要なファイルをゴミ箱に移動させていた、その時だった。


 ふと、見慣れないフォルダが優の目に留まった。


『Private_Masterpiece』


 プライベート・マスターピース。


 私的な傑作、とでも訳すのだろうか。誰かの悪戯だろうか。それとも、今度の文化祭で上映する作品の、仮のタイトルかもしれない。


 好奇心に駆られてダブルクリックする。


 だが、フォルダは開かなかった。代わりに、パスワードの入力を求める無機質なダイアログボックスが、画面の中央に現れた。


 鍵付きのフォルダ。


 部員が個人的なファイルを置くことは珍しくない。だが、共有サーバーにまで鍵をかけるのは異例だった。


 優は小さく首を傾げ、キーボードに指を伸ばす。


 まずは部の設立記念日を打ち込んだ。弾かれた。


 次に、文化祭で使う予定の映画の仮タイトル。これも違う。


「なんだよ、これ……」


 独り言が、静かな部室に小さく響く。モニターの光が、優の眼鏡のレンズに反射していた。


 漠然とした胸騒ぎがした。フォルダの名前に含まれる『Masterpiece』という単語が、彼の創作意欲を妙に刺激したのかもしれない。


 誰かが、自分に隠れてとんでもない傑作を作っているのではないか。


 そんな馬鹿げた嫉妬心が、鎌首をもたげる。


 優はいくつかの可能性を試した。


 自分の誕生日。親友の誕生日。日葵の誕生日。どれも不正解を示す冷たい警告音が鳴るだけだった。


 諦めて作業に戻ろうとした、その瞬間。


 ふと、ある記憶が脳裏をよぎった。


 先月、日葵と親友が、あるインディーズバンドのライブに一緒に行ったと話していた。


 優は映画のロケハンで都合がつかず、二人で行っておいでと笑って送り出したのだ。そのバンドの名前を、二人はやたらと気に入っていた。


 まさか。


 そんなはずはない。ただの偶然だ。


 そう思いながらも、優の指は無意識にキーボードを叩いていた。アルファベットを打ち込み、Enterキーを押す。


 カチリ、と軽い音を立てて、フォルダが開いた。


 心臓が、嫌な音を立てて軋んだ。冷たい汗が背中を伝うのを感じる。なぜ、自分には関係のないはずの二人の思い出が、パスワードになっているのか。


 震える指でカーソルを動かし、フォルダの中を覗き込む。


 そこには、動画ファイルが一つだけ、静かに鎮座していた。


 ファイル名は、『For Himari』。


 動悸が激しくなる。嫌な予感が、確信へと変わっていく。


 それでも、優は再生ボタンを押すのをやめられなかった。


 知らなければならない。この不快感の正体を、この胸を締め付ける不安の核心を、自分の目で確かめなければならなかった。


 クリックする。


 画面が暗転し、数秒の静寂の後、映像が流れ始めた。


 息を、呑んだ。


 そこに映っていたのは、夕陽に染まる海辺だった。オレンジ色の光が水面を照らし、きらきらと乱反射している。


 優が知らない場所だった。ロケハンで、こんな美しい場所は見つけられなかった。


 カメラがゆっくりとパンする。


 その先に立っていたのは、白いワンピースを纏った日葵だった。


 潮風に髪をなびかせ、彼女ははにかむように微笑んでいる。優が見たこともないほど、綺麗だった。まるで、プロの女優のように。


 違う。


 これは、優が撮った映像ではない。


 カメラを回しているのは、誰だ?


「日葵、こっち向いて。笑って」


 スピーカーから聞こえてきたのは、親友の、穏やかで優しい声だった。その優しさが、優の鼓膜を容赦なく引き裂いた。


 その声に応えるように、日葵はレンズに真っ直ぐな視線を向ける。その瞳は潤み、頬は微かに紅潮していた。


 それは、優がこれまで一度も引き出すことのできなかった、恋する少女の、無防備で、あまりにも甘い表情だった。


 映像は、次々とシーンを変えていく。


 緑が美しい公園のベンチで、一つのイヤホンを分け合って音楽を聴く二人。カメラは、日葵の肩にそっと寄り添う親友の頭を、ごく自然に捉えている。


 古びたカフェで、クリームソーダのサクランボを「あーん」と親友の口に運ぶ日葵の、悪戯っぽい笑顔。


 夜の展望台から見える街の灯りを背景に、親友のコートにくるまって寒そうにする日葵の、愛おしげな横顔。


 全てが、優の知らない時間だった。優の知らない日葵の姿だった。


 優は自分が撮った映像と、この画面の中の映像を、無意識に比較していた。


 自分の撮る日葵は、いつも少しだけ硬かった。それは彼女のせいではない。優が「ヒロイン」という役を彼女に押し付けていたからだ。目の前にいる生身の彼女ではなく、自分が理想とする像を追い求めていたからだ。


 だが、親友のカメラは違った。


 彼が撮る映像には、理屈がない。


 ただ、被写体への圧倒的な愛がある。どうすれば日葵が一番美しく見えるか、どうすれば彼女の魅力が最大限に引き出せるか。その一点だけを、彼は知り尽くしていたのだ。


 手持ちカメラの微かなブレさえも、二人の親密さを伝えるドキュメンタリーのような生々しさに変換されている。


 優がこだわっていた三脚で固定された安定した画とは、何もかもが違っていた。


 これは、ただのプライベートフィルムではない。


 一つの作品として、完璧に成立している。優がずっと撮りたかった、けれど決して撮れなかった「本物」の映画が、そこにはあった。


 やがて、映像はクライマックスを迎える。


 再び、冒頭の海辺。今度は完全に陽が落ちて、空には満月が浮かんでいる。


 画面に親友の腕が伸び、日葵の頬にそっと触れる。日葵は、うっとりと目を閉じた。


 そして――――。


 二人の唇が、ゆっくりと重なった。


 長い、長いキス。


 優は、声もなくその光景を見つめていた。頭が真っ白になり、思考が停止する。部室の空気が、急に薄くなったように感じた。呼吸ができない。


 モニターの画面を、今すぐにでも殴りつけて破壊したい。この悪夢を、この映像ごと消し去ってしまいたい衝動が、優の全身を駆け巡った。


 画面の中の日葵は、世界で一番幸せそうな顔をしていた。


 それは、優が決して与えることのできなかった表情だった。


 映像はそこでスローモーションになり、静かにフェードアウトしていく。


 やがて画面は完全に暗転し、中央に白い文字が浮かび上がった。


『Fin』


 終わり。


 何かの、終わり。


 PCの冷却ファンが唸る音だけが、死んだように静まり返った部室に響き渡っていた。


 優は椅子に座ったまま、身じろぎ一つできなかった。全身の血が、急速に冷えていく感覚。指先が、氷のように冷たい。


 裏切られた。


 その一言が、ようやく彼の脳に届いた。そして、胸の奥で音もなく憎悪の炎が燃え上がった。


 恋人に。


 そして、唯一無二だと信じていた親友に。


 二重の裏切り。


 自分が愛したもの全てに、同時に裏切られたのだ。日葵という存在に。親友との友情に。そして、自分が命よりも大切にしてきた「映画」という表現そのものに。


 お前たちの作った“傑作”は、俺が知らないところで、ずっと上映されていたのか。


 俺の人生が、滑稽な茶番だったとでも言うのか。絶対に、許さない。


 こみ上げてくるのは、怒りよりも、どうしようもない虚無感だった。自分が積み上げてきたもの全てが、砂の城のように、いとも容易く崩れ去っていく。


 どのくらいの時間が経っただろうか。一瞬のようにも、永遠のようにも感じられた。


 その時。


 ガチャリ、と静寂を破って、部室のドアが開く音がした。


 優は、壊れたブリキの人形のように、ぎこちなく首をそちらへ向ける。


 そこに立っていたのは、坂田日葵だった。


「優、まだいたの? 編集、大変だね。お疲れ様」


 彼女は、何も知らない笑顔を浮かべていた。


 その手には、温かいコーヒーが二つ入ったコンビニの袋が提げられている。優を労うために、わざわざ買ってきてくれたのだろう。


 その優しさが、その無邪気さが、今の優にとっては、どんな鋭利な刃物よりも深く、心を抉(えぐ)った。


 画面の中で見た、あの甘い笑顔。


 親友に向けられていた、あの表情。


 それと寸分違わぬ笑顔で、日葵は優を見つめている。


 優の目の前で、世界が、音を立てて崩れていく。


 アスペクト比一・八五対一のモニターに映し出された裏切りと、目の前に立つ現実の裏切り者が、ぐにゃりと歪んで一つに重なった。

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