第十七章:接触点
一歩。また一歩。
ヤヌスの足が、黒く焼け爛れた大地を掴む。
世界は、赤く染まっていた。塔が放つ不協和音の奔流が、視界の全てを塗りつぶし、方向感覚はおろか、上下の感覚さえも奪っていく。
唯一の道標は、右腕の先、ナイフが奏でる78.7ヘルツの清冽な音色だけだった。
だが、その音色を守るための代償は、あまりにも大きい。ナイフを握る右手は感覚を失い、腕は肩の付け根から引き千切れんばかりに痛む。一歩進むごとに、全身の血管が内側から破裂するような激痛が走った。
『ヤヌス! 塔のエネルギー出力が、さらに上昇しています! 指数関数的に!』
岩陰から、オラクルの悲痛な報告が届く。
塔は、ヤヌスという「異物」を認識し、その抵抗を力ずくで排除しようとしているのだ。赤い光の波は密度を増し、もはや嵐というよりは、粘性を帯びた赤い濁流となってヤヌスに襲いかかる。
『クソッ……!』
スペクターは、スコープの中で米粒のように小さくなっていくヤヌスの背中を、ただ見つめることしかできなかった。赤い光の余波だけで、強化戦闘服のセンサー類が次々とエラーを起こしていく。自分の身体も、内側からじわじわと侵食されていくのが分かった。
ヤヌスの脳裏に、歪んだ鉄塊と化したジャガーノートの残骸が焼き付いて離れない。屈強な、誰よりも仲間思いだった男の、あまりにも無惨な最期。仲間たちの断末魔の叫び。その全てが、ヤヌスの怒りを増幅させ、燃え上がらせる。
「うおおおおおおおおっ!」
それは、言葉にならない咆哮だった。
生命そのものが発する、根源的な抵抗の雄叫び。
ヤヌスは最後の力を振り絞り、前へと跳んだ。
そして、ついに。
カッ!
彼の右手の先、振動するナイフの切っ先が、黒い巨塔の壁面に、触れた。
接触した瞬間、世界から、全ての音が消えた。
塔が放っていた不協和音の残響も、ナイフが奏でていた調和の音も、ヤヌス自身の心臓の鼓動さえも。まるで宇宙が生まれた瞬間の無音に戻ったかのような、絶対的な静寂が、山頂を支配した。
そして。
ナイフの切っ先が触れた一点から、蜘蛛の巣状の、青白い亀裂が、黒い巨塔の壁面を走り始めた。
それは、破壊の亀裂ではなかった。
凍てついた湖の氷が、春の陽光に解けていくかのような、静かで、美しい亀裂だった。
塔の脈動が、止まる。
赤い光が、急速に色を失い、山頂に、つかの間の夜の闇と静寂が戻ってきた。
ヤヌスは、糸が切れた人形のように、その場に膝から崩れ落ちた。
彼の意識が、遠のいていく。
その最後の瞬間に、彼は聞いた。
『――調和の……音……』
それは、塔から発せられた、初めて聞く、穏やかで、儚い音色だった。
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