第十六章:調和の刃
『ヤヌス! 馬鹿な真似はやめろ! 戻れ!』
スペクターの絶叫が、背後で響く。だが、その声はヤヌスの耳には届いていなかった。彼の世界は、今や正面にそびえ立つ黒い巨塔と、右手に握りしめた一本のナイフだけに集約されていた。
キィン、と刃が微かに、しかし鋭く震えている。78.7ヘルツ。守護者の障壁を切り裂いた、特別な周波数。それはまるで、ヤヌスの燃え盛る怒りに共鳴し、歌っているかのようだった。
塔の頂点で、再び赤い光が渦を巻く。
第二波。
死の宣告。
『――不協和音を、消去』
塔の意思が、山頂の空気を震わせる。
ヤヌスは、歩みを止めない。むしろ、その一歩一歩に、さらに体重を乗せていく。雪を、黒く変色した大地を、強く踏みしめる。
『ヤヌス! 回避行動を!』
オラクルの声は、もはや悲鳴に近かった。
赤い光の波紋が、放たれる。
死が、山頂を再び蹂躙する。
ヤヌスは、避けなかった。
ただ、右手のナイフを、自らの胸の前に、まっすぐに突き出す。まるで、祈りを捧げるかのように。
光が、ヤヌスの身体に到達する――その寸前。
カキン! という、硬質な音が響いた。
ヤヌスのナイフの切っ先と、赤い光の波紋が接触した点で、目に見えない火花が散る。
振動する刃は、赤い光を「切り裂いて」いた。
光は、ヤヌスの身体を避けるように、彼の周囲で二つに分かれ、背後へと流れていく。ナイフが作り出した、わずか半径数十センチの「領域」。そこだけが、生命の調和を破壊する不協和音から守られた、唯一の聖域だった。
ヤヌスは、自らの遺伝子が軋む感覚が消え去っていることに気づく。ナイフが奏でる78.7ヘルツの「調和の音」が、塔が放つ「不協和音の残響」を、打ち消しているのだ。
だが、それはあまりにもか細い希望の光だった。
ナイフの柄を握る腕が、痺れるように痛む。凄まじいエネルギーの奔流を、たった一本のナイフで受け止めているのだ。全身の骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げる。一歩進むごとに、肺が灼けるように痛んだ。
『……ヤヌス……? 生き、てる……?』
スペクターの、信じられないといった声が通信機から聞こえる。
「……ああ」
ヤヌスは、短く応えた。
「まだ、死ねん」
彼は、再び歩き始めた。
赤い光の嵐の中を、たった一つの音色を頼りに。
人類の存亡を賭けた、孤独な一歩を、踏み出した。
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