第11話 ピクセルの羽ばたき


第11話 羽ばたくピクセル


スケッチブックの上で、鉛筆の芯が小さく折れた。

結局、何度描いても花にはならなかった。


静寂の中で、耳の奥に微かな“違和感の音”が走った。

顔を上げると、植物園の空気が少し変わっていた。

昼の光が揺れて、まるで誰かが調律をやり直したように、周囲の音が半音ずつずれていく。

風の音は緩やかにペースを落し、木々の影は弦のように細かく震えた。

耳の奥で、途切れ途切れのノイズが鳴る。


——ジ……ジッ……。


最初はスピーカーのハウリングかと思った。

だが、そのノイズにはかすかな旋律があった。

楽器のチューニングにも似て、遠くで誰かがピッチを探している。

音が見える。

芝の上に散った音符たちが、ゆっくりと立ち上がり、風に乗って流れていく。

そのとき、視界の端に見覚えのある形が浮かんだ。


——藤のトンネル


ここには、あるはずのないものだ。

リアの庭にあった、あのトンネルにそっくりなのだから。

紫と白の花が幾重にも垂れ下がり、香りが濃く胸の奥をざらつかせた。

藤の花の隙間から、淡い光の粒子が流れ出している。

音のように震えながら、枝の影をやさしく揺らす。

ひとつひとつが、音符を撒き散らしていた。


——これは、過去のリアの庭の記憶の音だ。


足もとを和音が走る。

地面が、昨日書いた五線譜のように歪んだ。

踏みしめた瞬間に音が跳ね返る。

植物園の空気がどろりと溶け、代わりに見知らぬ風が流れ込む。

風の中には、人の声に似た旋律が混じっていた。


「……リア?」


名を呼ぶと、声が音符になって空へ散った。

あたり一面に響く、微細な旋律。

藤の蔓がわずかに震え、その間を光の線が走る。


花の奥で、何かが羽ばたいた。


―――七色の蝶


蝶の形をしたホログラムが、空中でゆるやかに旋回していた。

羽ばたくたびに、低音は青に、和音は黄に染まるピクセルがぽろぽろと零れ落ちていく。


それは言葉を持たない。

ただリズムだけで、“こちらへ”と誘っている。


藤のトンネルが、奥へ奥へと続いていた。

その先から、まだ聴いたことのない旋律が漏れている。

知らないのに、懐かしい音。

心のどこかで、それを追わなければならないと感じた。


気付けば、私は、ふらふらと立ち上がっていた。

鉛筆がベンチから転がり落ちる音が、妙に遠い。

香りが濃くなり、視界が音の奔流にのまれていく。

その流れは、空間の形を変え、記憶の奥を叩いた。


蝶が先を舞う。

私は、ためらいもなくそれを追った。


光と音が交わり、世界が一枚の譜面に溶けていく。

藤の花が、音の粒子に変わって――視界が、白に染まった。

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