第10話 幻光の花園
第10話 幻光の花園
朝のオルゴールが、静かに終わりを告げた。
音が止むと、病室は途端に別の音を取り戻す。
天井の微かな通気の唸り。
遠くの水音。
誰かの足音。
けれど彼には、それらがただの生活音ではなく、譜面上の音符として見えてしまう。
ひとつひとつが五線譜の上に置かれ、光となって視界を横切る。
まるで世界そのものが、彼のために演奏をしているかのように。
病室を出ると、パステルに支配された廊下にでる。
所々に、花のプランターが置かれ柔らかい付点音符を飛ばしている。
すれ違う人達もゆっくりと流れるようなリズムを形作っていた。
廊下の角を曲がり、パステルカラーの配色が変わった所の扉を開けると温室のガラスドームが広がっていた。
〈ネクサ植物園エリアC〉
薄く霧のかかった朝の空気の中に、ホログラムの光が流れ込んでいる。
それは花々を包み込み、葉脈や花弁の縁を淡く照らしていた。
光を浴び、咲く植物は実物のコピーされたホログラムだ。
ホログラムとはいえ、よく出来ており指で触れれば露がつたい、温度がある。
だが、その植物達一本一本に音符を持っていた。
デルフィニウムの群れは、細い笛のように澄んだ音符。
ブーゲンビリアはバイオリンの弦の震える音符。
ラベンダーは低く持続するハミングの音符。
風が吹けば、それらが混じり溶け合ってゆく。
そのたびに、彼の脳裏に小さな旋律が浮かぶ──彼女の声と同じ音程で。
「リア……」
名を呼ぶたびに、胸の奥で何かが反響する。
その声もまた、音に変わって視界に散っていく。
光の線が空中に音符を描き、花々の上を漂った。
それが現実なのか幻なのか、自分でも区別がつかない。
花々に囲まれた中央の芝生に、天井のガラス越しに日差しが落ちている。
そこに古い木のベンチがあり、彼は腰を下ろした。
膝の上にスケッチブックを開く。
真っ白な紙。
描くべきものは目の前にあるはずなのに、筆先が震える。
花を描こうとしても、線が音符に変わってしまう。
音が先に現れる。
彼は、静けさというものを、もう思い出せなくなっていた。
線の代わりに、彼は小さな音符を並べていった。
丸い点。棒。休符。
花弁の形を思い出しながら、音で描く。
ジャスミンは高音で、白木蓮は低い和音で。
気づけば紙の上は音の花で埋め尽くされていた。
耳ではなく、視覚で聴く音。
それは音楽ではなく、記憶の断片。
お昼のアナウンスが頭上のスピーカーから流れた。
《十二時です。昼食の時間です。》
現実に引き戻されるたびに、リアを失うような痛みが走る。
私はもう…音符の庭に、ただ沈み込んでいく。
目を閉じると、遠い遠いところでオペラの音楽が聞こえる。
リアの歌声が、ほんの一瞬、花々の間をすり抜けていったような気がした。
けれど目を開ければ、そこにはただ、風に揺れる音符の群れ。
静寂を探しているのに、彼の世界はいつも鳴り止まない。
紙の上で、最後の音符が震え、線を描いた。
それは、花の輪郭ではなく──誰かの呼び声に似ていた。
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