音の庭の果て
第9話 人工の夜明け
第9話 「人工の夜明け」
朝のオルゴールが流れていた。
この旋律は、接続静域〈ネクサ〉で流れる目覚めのメロディ――〈artificial Dawn〉
スピーカーから流れる音は、決まって八時ちょうどに始まる。
演奏時間、二分三十秒。
始まりも終わりも、狂いがない。
AIによる音の制御は完璧で、揺らぎすらない。
その正確さが、どうしようもなく息苦しい。
ベッドの上で身を起こす。
パステルグリーンの壁が、朝の光を柔らかく返していた。
窓の外から、細い光の糸が差し込み、空気を淡く染めていく。
窓の外から響く葉擦れの音がバイオリンの弦のように揺れ、風がピアノの和音を生む。
耳を塞いでも、音は消えない。
むしろ、いっそう鮮やかに鳴り始める。
床には、譜面が散らばっている。
鉛筆で描かれた五線譜は途中で乱れ、黒く塗りつぶされたまま終わっている。
何枚も、何十枚も。
夜ごとに書き、朝には壊す。
音を形に留めてしまうことが怖かった。
一度留めてしまえば、リアは戻らない気がする。
「……リア」
彼女は、オペラ歌手だった。
公演中、ステージの床が抜け落ち、リアは奈落に落ちていった。
最後に自分の名を呼んだ声が耳に残っている。
あの瞬間から、世界のすべての音が宙を舞う音符になった。
木々の葉が擦れる音も、誰かの靴音も、花が咲く音も、すべてに音符とリアが混じる。
いつしか、この症状に〈幻覚型過感覚症〉という名がついていた。
二分三十秒の旋律が終わり、室内に“静寂”が訪れる。
だが、その静けささえも、灰色の音が漂っている。
耳鳴りではない。
静寂も音を持っている。
──彼女の最後の声と、同じ音をしていた。
壁に埋め込まれたモニターに薄く光る文字が浮かぶ。
【おはよございます。ID-2279さん】
【睡眠スコア:83/100】
【バイタル安定】
【脳波:多少の乱れあり】
【眼球動作:規定値範囲内】
【処方:スケッチ10分/植物園Cを推奨します】
スケッチの項目に〈はい〉を押す。
コンコン、病室の扉をノックする音がする。
ホログラムで出来た看護AI〈ミナ〉が来たようだ。
「おはようございます、ID-2279さん。」
「おはよう」
「本日の気分はどうでしょうか?」
「悪くはないよ」
「はい。では、本日はスケッチでしたね。心を整えるのにお勧めですね。いってらっしゃい。」
「ええ、少ししたら行きます」
ニコリと笑った〈ミナ〉の音声がパステルの空気を震わせた。
その声に呼応するように、頭の奥でいくつもの音符が弾ける。
単調な音階。
A、D、A、B。
──まるで自分の心拍数だ。
私はベッドから降り、机の前に座る。
鉛筆を手に取り、譜面の余白に線を引く。
だが、線はすぐに音符に変わってしまう。
私は、全てをぐちゃぐちゃに塗りつぶしてしまった。
AIの提案による「スケッチ療法」は、実は彼にとって拷問に近い。
音符が邪魔をして花の形を台無しにしていく。
実際、窓の外には白木蓮が咲いているはずなのに、花弁が触れ合う音が音符とリアを宙に放り出すのだ。
「リア」
リアの声に似た音程で囁く。
──「 」
思わず息を止める。
胸の奥で、あの時の記憶が音を立てて揺れた。
窓辺の光が少し強くなる。
スピーカーの機械音が、もう一度、彼に朝を告げた。
──まるで、「今日も、息をして」と命じるように。
私は、椅子から立ち上がり床に散らかった譜面を一枚一枚拾う。
塗り潰された線の奥、かすかに残る旋律を見つける。
それはリアが愛した調べ──
彼女が、音楽そのものだった頃の記憶の断片。
指先でその音符をなぞる。
黒鉛の粉が指に移り、ざらりとした感触が残る。
その感触が、唯一の“現実”に思えた。
再び流れたオルゴールの曲。
〈artificial Dawn〉
――人工の夜明け。
その名を口の中で転がしてみる。
無機質で、冷たい響き。
けれど、ふと、リアがつけた曲名のようにも思えた。
きっと、彼女なら…こう言うだろう。
「どんなに人工でも、音楽は音楽よ。」
音のない笑いが、胸の奥で微かに弾けた。
「そうかもしれないね。……リア」
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