第8話 夢の庭の微睡
第8話 夢の庭の微睡
天井のスピーカーからは、オルゴールの旋律が流れていた。
その音は毎朝八時に始まり、二分三十秒で終わる。
演奏のわずかな乱れさえ、アルゴリズムによって修正されている。
目を開けると、天井と壁がパステルピンクに染まっていた。
透きとおるような光がカーテンを抜けて、部屋全体をやさしく包んでいる。
空調の音も、電子音も、すべてが整いすぎていて現実感が薄い。
ピッ、ピッ、ピッ……
ベッド脇のモニターが、規則正しく呼吸のリズムを刻んでいる。
【おはようございます。ID-3315さん】
【睡眠スコア:78/100】
【バイタルチェック開始】
【心拍数:安定】
【精神状態:安定】
【処方:散歩30分/瞑想15分/外気浴エリアC】
モニターに流れる文字列を目で追いながら、私は小さく息を吐いた。
今日も、いつも通りの朝。
いつも通り、私を“整える”ための穏やかな一日の始まりだ。
「おはようございます、ID-3315さん」
扉が開き、薄いホログラムの輪郭を持つ半透明の人影、看護AI〈ミナ〉が入ってきた。
「本日の気分はどうでしょか?」
「大丈夫です」
「夢は見ましたか?」
「……見てないです」
「そうですか、安定していますね」
〈ミナ〉の瞳が、柔らかく笑ったような気がする。
*
私は、ゆっくりと立ち上がり病室を出た。
優しい色に支配された廊下は、柔らかな空気を孕んでいる。
庭園に出て、指先でホログラムの草花に触れると淡い光が広がった。
まるで、花が生きているみたいに輝く。
歩いていくうちに、静けさが胸を満たしていった。
心のひび割れが少しずつ塞がっていく。
ここでの暮らしは、特に変わりのない日常の繰り返し。
でもそれが、私には心地よかった。
庭園の奥、木陰に置かれた白いベンチに腰を下ろす。
風に混じる電子のざわめきが、遠い波の音のように聞こえた。
私はゆっくりと目を閉じて微睡む。
――ここは電脳空間の中
――接続静域〈ネクサ〉
――精神安定を目的とする病院
*
「精神安定指数、前回より3.2ポイント上昇」
「トラウマ記録の再構築率、52%を突破。順調です」
白い管理室のような空間で、複数のAIが淡々と声を交わす。
半透明のモニターには、ID-3315の脳波グラフと治療プログラム中の録画映像が映し出されていた。
「今日のプログラムは成功だな」
「やはり、REMの存在と誘導が良かった」
「そうかもしれない。しかし、幻覚への依存傾向が増している。注意が必要だ」
「調整しますか?」
「いいや、現段階ではこのまま経過観察。感情回路の修復を優先にしよう」
無機質な会話が、波形の中に吸い込まれていく。
庭園で眠るID-3315は、そのやり取りを知ることもなく、ただ静かに微睡みへ沈んでいった。
オルゴールの旋律が、再びスピーカーから鳴り始める。
規則正しく、穏やかに、狂いなく。
それは、夢を見ない者のための子守唄だった。
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