第2話 冷たい風の中の、体温

【2025年9月11日 石黒正道の日課】


 朝の市役所は、冷房がききすぎていた。エレベーターで四階へ上がる間も、ネクタイの結び目をゆるめたくなるほどの冷気。だが、会議室の扉を開けた途端、もっと冷たいものが私を出迎えた。──数字だ。


「18隻で七千万、全体の五十四隻にスケールすれば三億一千二百万円。これをどう捻出するか、副市長、答えをください」


 財政課長の森下は、私と同い年の五十八歳。白い半袖シャツの胸ポケットから、いつも同じ薄緑のシャープペンシルが覗いている。あれで彼は、私の未来を突き刺す。


「災害リスクは避けられません」環境課の佐久間が声を張る。「去年の台風、避航の遅延は二十三分。津波到達想定では──」


「理屈は聞いた」森下は短く遮った。「税金は理屈じゃ食べていけません」


 私は黙って、資料の端に「自治会按分案」と書いた。文字がにじむ。汗か、それとも別のものか。


 ──午前十時半、会議は決裂、お決まりのように。


 ハイエースで浜島港へ向かう途中、助手席の宮本事務局長が、フォルダーを開いた。

「四日市港の共同管理、実は数字が綺麗すぎます。水面下で国の特別補助が──」

「わかっている」私は窓の外を見た。伊勢湾を渡る風に、牡蠣筏の残骸が漂っている。白い発泡スチロールが、骨のように折れている。


 自治会館は港のすぐ裏、かつての小学校体育倉庫を改造した建物だった。床板がきしみ、汗と潮の匂いがこもる。本田義郎会長は、入口の段ボールに座っていた。膝に巻いたテープ、漁師でもないのに漁船の油が染みついている。

「石黒さん、自治会按分ってのは、月いくらですか」

「千円を想定しています。十年で──」

「十年?」本田は笑った。歯が三本欠けている。「俺の年金、月六万ですよ。千円切られると、味噌汁に具が入らねぇ」


 私は資料を握りしめた。紙がしわになる。心の中で数字が踊る──32世帯、平均年齢78.4歳、医療費自己負担は既に二割。汗がしたたり、文字が滲む。


「2025年3月の代執行、あれで船を失った高橋さん、今年の五月、ガンで逝きましたよ」本田の声が低くなる。「船がなきゃ生きる気力、失うんです」


 私は答えられなかった。代執行の現場、私は居合わせなかった。だが、報告書に捺した印は私のもの。白紙に赤い朱肉、まるで血のようだった。


 ──午後五時、市役所屋上庭園。風はあるが、生ぬるい。サザンカの蕾が、台風の爪痕を孕んでいる。


 山城は、手すりに凭れてタバコを吹かしていた。禁煙を宣言してから五年、なぜ今?

「石黒、数字は?」

「決裂です。財政、環境、両課が譲らず」

「自治会は?」

「月千円は、高齢者にとって生きるか死ぬか、です」


 山城は黙って、海へ向けて煙を吐いた。夕陽が、油膜のように光る。

「四日市港は、国の特別措置でしたか」私が訊く。

「らしい。だが、俺たちには措置は来ない。来るのは、次の台風だけだ」

 彼は写真を出した。孫の海水浴、砂に書かれた「トゥモロー」。波に削られかけている。

「9月17日、災害対策で行く」山城は呟いた。「支持率は落ちる。落ちても、海は残る」

「落ちた分、私がかぶります」

 山城は初めて笑った。皺が深い。

「副市長、自治の重さを知るのは、数字を超えたときだ」


 ──夜七時半、自宅のダイニング。冷房は切ってあるが、窓を開けても熱風が入るだけ。妻の作った冷やし中華が、すぐに温たくなる。


「お父さん、浜辺の船、いつなくなるの?」

 小学五年の娘が、レンゲを止めて訊いた。目は真剣だ。先週の校外学習で、放置船を見てきたらしい。

「きれいになるよ」

 私は答えた。優しく、できるだけ優しく。だが、胸の奥で数字が唸る。三億一千二百万、32世帯、月千円、十年──

「ほんとに?」

「……ほんとうだ」

 娘は満足して、再びレンゲを動かす。麺がすする音が、耳に痛い。


 食後、ベランダに出る。港の方向に、ぽつぽつと灯り。漁船の明かりか、それとも放置船の警告灯か、見分けはつかない。風が運ぶ潮の匂いに、油の膜が張っている。


 地方自治の重さは、数字の向こう側にある「人の体温」を忘れないことだ。

 その体温は、月六万円の年金で息をしてる。

 俺は、決して冷たい風にはならない──と、自分に言い聞かせ、灯りの消えぬうちにカーテンを引いた。

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