数字の向こうに、海がある

共創民主の会

第1話 潮の底で、数字が鳴る

【2025年9月10日 私の日記】


 会議室の空気は、冷房の風が通らぬほど重かった。県庁18階、窓の外に広がる伊勢湾は、台風一過の蒸し暑さに煙っている。午前9時30分──「一般海域管理条例検討会」は、最初から刀禰みたいだった。


「18隻、7000万円ですよ」

 県財政課の若手が並べた数字が、テーブルを滑る。私はメモ用紙の端に「54隻全体で3億超」と書き、ボールペンで二重線を引いた。数字は冷たい。が、数字以上に冷たいのは、対面に座る副知事の声だ。

「山城市長、災害リスクは理解する。だが、県民の税金を『所有者不明のゴムボート』に注ぎ込むわけには──」

 私は黙って資料をめくる。3月に起きた千葉県の事例。放置船が台風で流失、防波堤を破損、復旧費用7300万円。被害を受けたのは、高齢者の独居住宅が並ぶ埋め立て地だった。写真の老婦人の目が、昨日の孫の顔と重なった。

「待ってはいられません」

 私は立ち上がった。膝がぎくりと鳴る。62歳、市長三選目前のこの体に、もう耐えられないのは時間だった。

「志摩市の浜島港には、54隻の放置船があります。台風16号が来た昨年、漁船の避航に20分の遅延が出ました。20分──津波なら3メートル押し寄せます」

 会議室がざわつく。知事は腕組みしたまま、私を見返した。沈黙は、答えだった。


 ──午後1時、志摩市へ向かうハイヤーの中、石黒副市長が運転手に無理を言ってコンビニで買ってきたのは、塩味大福だった。

「奥さんの実家、伊勢の御蔭みたいですね」

 彼はそう言って、私に一個差し出す。白い餅が、車内の冷房で汗をかいている。私は一口齧り、舌の上で海の塩を感じた。

「石黒、所有者不明10隻の内訳、自治会按分案は?」

「高齢世帯32件に均等割。月千円、十年で120万。年金天引きは、法的にグレーです」

「……そうだな」

 私は窓の外を見た。雲の切れ間に、伊勢神宮の鳥居が小さく浮かぶ。昨日の新聞が言っていた──「景観条例なら賛成82%」。だが、災害対策と言えば「納税の公平性」で支持率は一気に38%に落ちる。数字は、神より冷徹だ。


 浜島港についたのは午後2時15分。太陽がコンクリートを焦がし、波が重油の膜を運んでくる。記者クラブの先輩、編集長の西岡が、カメラマンを従えて待っていた。

「市長、今日は特集ページです。『放置船が消えた海』」

「……消えるかどうか、これからです」

 私は笑顔を作った。が、足元に転がる油の塊が、靴底をぬらす。手を突っ込めば、指の間から黒い滴がしたたる。潮風と混じって、台風の匂いがした。

「あんた、市長さん?」

 70を超えた漁師が、軍手を握りしめて近づいてきた。

「この船、3年も動かねぇ。養殖の筏が絡まって、牡蠣が育たねぇ。若いもん、仕事がねぇ」

 老人の背後で、FRP製の漁船が傾いている。船腹に無数の龜裂、舷灯は錆びて落ちかけている。記者のマイクが、私の口元に突きつけられる。

「なぜ、急ぐのですか?」

 私は黒い手をズボンで拭った。答えは、決まっている。

「千葉の7300万円を、志摩で繰り返せないから」

 しかし、頭の片隅で別の計算が回る──54隻の撤去費は3億1200万。18年間の市税収増見込みは2億9000万。マイナス2200万。孫の写真を撮るための新スマホが7万9800円。数字は、心を腐食する。


 市役所に戻ったのは4時半。会議室のブラインドを下ろすと、伊勢湾が細い帯になって見えた。石黒、佐久間課長、それに自治会長の三人が、既に陣取っている。テーブルに広げられたのは、A3の内訳表──「所有者不明10隻 自治会按分案」。

「月千円なら、お茶代を削れば払える」

 自治会長は、そう言って笑う。だが、目尻が震えている。私は、ポケットから孫の写真を取り出した。先月、海水浴で撮ったもの。砂に書かれた「トゥモロー」という文字が、波に削られかけている。

「……自治会按分は、凍結しましょう」

 私は言った。佐久間課長が、メガネを押し上げる。

「では、財源は?」

「一般会計からの繰り入れ。ただし、災害対策として国庫補助を申請する。景観ではなく、防災。9月17日の委員会では、そこを訴える」

 石黒が、小さく息を吐いた。数字の壁は、依然として厚い。だが、数字の向こうに、孫の笑顔が見え隠れする。


 夜9時、自宅の書斎。エアコンは故障していて、扇風機が首を振るだけ。机の上には、3月の行政代執行の報告書。あの日、私は最後の最後で、船主の名前を伏せた。高齢で寝たきりの元漁師──彼の年金では、とても撤去費は賄えない。報告書の隅に貼られた付箋が、扇風機の風ではためく。「景観条例 支持率82%」「災害条例 38%」。

 孫の写真を握りしめる。彼はいま、東京で幼稚園に通っている。台風のニュースを見て、「おじいちゃん、海に行こう」と電話で言った。私は答えた──「海は、明日のために守るものだ」。

 市政とは、明日を生きる人のために今日を捨てる覚悟だ。

 数字は冷たい。だが、冷たい風の中にこそ、命の火を守る術がある。9月17日、私は「災害対策」と言い切るだろう。支持率が38%でも、孫の未来が100%に近づくなら。


 机の明かりを消した。窓の外、伊勢湾に浮かぶ漁火が一つ、また一つと消えていく。放置船の灯ではない。明日の朝、潮を知る漁師たちの灯だ。私は、写真を胸に抱いたまま、椅子に身を任せた。蒸し暑い夜風が、汗ばんだ額を撫でる。海の匂いがした。

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