第三部 第1章 星の厨房 ― 旅立ちのスープ ―
夜明け前の空に、まだ星が残っていた。
俺は焚き火の前で、静かにスープを煮ていた。
火の音が、ゆっくりと呼吸するように鳴っている。
エルナは寝袋に包まったまま、寝息を立てていた。
ルーファスは少し離れた岩の上で翼を休めている。
世界は、ようやく落ち着きを取り戻していた。
虚無を満たしてから三か月。
戦争も飢えも消えた。
だが、俺の中には、言葉にできない“空腹”が残っていた。
「……もう、神じゃないのか。」
呟くと、風がやさしく返してきた。
神々の力を使い果たしたあの日、メルクスは言った。
――「汝の料理は、もはや神々の領分を超えた。ゆえに“人”へ還れ。」
神から人へ。
特別な力を失った代わりに、俺は再び“味わう”ことを許された。
それは、不思議な幸福だった。
朝日が昇る。
エルナが目を覚まし、髪をかき上げた。
「……いい匂い。何のスープ?」
「昨日拾った根菜と、残りのパンくず。それにちょっと塩。」
彼女が湯気を吸い込み、微笑んだ。
「神様のときより、ずっと美味しそう。」
「それは褒めてるのか?」
「もちろん。」
彼女の笑顔に、少しだけ胸が温かくなった。
スープをひと口飲む。
舌の上に、ほんのり苦味と甘味が残る。
ああ、これが“生きてる”味だ。
昼頃、丘の上に小さな集落が見えた。
久しぶりに人の匂いがする場所。
俺たちはそこへ向かった。
村は静かだった。
麦畑が風に揺れ、遠くでは牛が鳴いている。
だが、どこかで“何かが足りない”気配がした。
「……香りが、ない。」
パンを焼く匂いも、煮込みの香りも、風に乗ってこない。
エルナが首を傾げた。
「この村の人、料理してないの?」
「いや、してるさ。」
近くの家の煙突から、細い煙が立っている。
だが、匂いがまるで感じられなかった。
村の中央広場に行くと、ひとりの老人がいた。
背中を丸め、石のベンチに腰を下ろしている。
俺が声をかけると、彼は驚いたように顔を上げた。
「……旅の方かね。」
「ああ。何か手伝えることは?」
「食べ物を分けてもらえんかのう。最近、どうも味がしなくてな。」
俺は一瞬、息を呑んだ。
“味がしない”――その言葉が胸に刺さる。
「病か?」
「医者も首をかしげとる。匂いも味も感じんのじゃ。
それでも腹は減る。……だから、食べるんじゃよ。」
その声には、生気がなかった。
俺は鍋を取り出し、薪を組み、火を灯した。
ルーファスが低く唸る。
『まさか、また味覚異常か? デウロの残滓かもしれん。』
「かもな。だが、確かめてみる。」
根菜を刻み、油を垂らし、火にかける。
香ばしい匂いが立ち上がる。
風が香りを運び、周囲の人々が集まってきた。
「……懐かしい匂いだ。」
「いつぶりだろう、こんな香り……。」
老人が震える手で椀を受け取る。
ひと口、口に含み、目を見開いた。
「味が、する……!」
人々のざわめきが広がる。
だが同時に、空気が微かに揺れた。
『……ユウタ、気をつけろ。何か来る。』
突如、地面が波打った。
影が地を這い、空間の裂け目から黒い霧が立ち上る。
その中から、銀の仮面をつけた男が現れた。
その姿には見覚えがあった。
――かつて、虚無の主に仕えていた神官。
だが、今は人の形をしている。
「……ようやく見つけたぞ、“饗宴の神”。」
「もう神じゃない。」
「ならば、奪うまでだ。」
男が手をかざすと、空気が凍りついた。
周囲の香りが消え、人々がその場に倒れる。
『匂いを……奪ってる?』
「味を再び独占しようとする者か。」
男の声は冷ややかだった。
「世界は“味”を共有するには脆すぎる。
神であれ人であれ、味わうことは罪だ。」
「……また“罪”か。」
俺はゆっくりと立ち上がった。
「なら、もう一度証明してやる。
味は罪じゃない。“生きる証”だ。」
包丁を握る。
男の放った闇が渦を巻き、鍋を飲み込もうとする。
だが、火が消えない。
その小さな炎が、まるで世界の心臓のように脈打っていた。
ルーファスが咆哮を上げる。
エルナが光を放つ。
俺は包丁を振るい、空気を切った。
刃が光を裂き、香りが解き放たれる。
焦げたパン、スープの蒸気、草の匂い――
失われた味覚が、空を満たしていく。
男の仮面が割れ、灰となって崩れた。
静寂。
風が戻り、人々の頬に涙が伝う。
老人が俺を見上げ、微笑んだ。
「……ありがとう。あんたの料理、懐かしい味がする。」
「懐かしい味、か。」
俺は鍋の中を覗き込む。
そこには、何の変哲もないスープが揺れていた。
けれど、確かに“生きている”匂いがした。
夜。
焚き火のそばで、ルーファスが言った。
『また神の残滓が動いたな。虚無はまだ完全に眠っていない。』
「わかってる。
でも、俺はもう神じゃない。人間として向き合う。」
エルナが頷く。
「人間の料理人として、ね。」
「ああ。」
俺は笑い、空を見上げた。
無数の星が、まるで鍋の中のスープの泡のように瞬いていた。
「さあ、次の星へ行こう。
味を忘れた世界は、きっとまだたくさんある。」
第三部・第2章「記憶のパン屋 ― 星を焼く少女 ―」へ続く
新天地・
そこで出会うのは、“味を知らない少女パン職人”。
彼女が焼くのは、誰にも食べられない「記憶のパン」。
――そのパンが、失われた星々の記憶を呼び覚ます。
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