第三部 第2章 記憶のパン屋 ― 星を焼く少女 ―
風が、甘かった。
雲の上に浮かぶ巨大な都市で、街全体が一つのパン窯のように温かい光を放っていた。
遠くから見ると、まるで“焼きたての惑星”だった。
「……ここ、いい匂い。」
エルナが目を細める。
街を包む風には、小麦と蜂蜜の香りが混ざっている。
『だが妙だな。匂いはあるが、“味”がしない。』
ルーファスが低く唸った。
『これは……香りだけを模倣している。』
「偽りの香り、か。」
俺は空を見上げた。
焼き立ての匂いの奥に、かすかな焦げの匂い――
まるで、誰かの“記憶”が焦げついているようだった。
街の中央には巨大な工房があった。
ドーム状の屋根から、白い煙が立ち上っている。
看板には“星のパン工房・アステリア”と書かれていた。
扉を開けると、温かな光と粉の匂いが溢れ出す。
だが、そこにいた少女の表情は、驚くほど無表情だった。
「いらっしゃいませ。」
淡い銀髪、琥珀の瞳。
年は十五、六。
エプロンには粉がこびりつき、手には焼き色の薄いパン。
「……パン、ですか?」
「ええ。お客さん、ですか?」
「旅の料理人だ。匂いに惹かれて来た。」
少女は首を傾げる。
「匂いが……わかるんですか?」
「君は、わからないのか?」
彼女は少しだけ笑った。
「私は、パンを焼くことしかできません。
味も、香りも、感じたことがないんです。」
工房の中を案内してもらうと、壁一面に焼き上げたパンが並んでいた。
形は美しい。
星、月、雲、花――まるで芸術品のようだった。
「どれも食べられないの?」
「ええ。飾りです。
この街の人たちは、見て満たされるんです。
食べることは“過去に縋る行為”だから。」
少女はそう言って、静かにパンを並べ直した。
「名前は?」
「リゼ。……この工房の焼き手です。」
「リゼ。」
俺はパンを一つ手に取った。
触れると、まだほんのり温かい。
「この温もり、悪くないな。」
彼女が小さく首を振る。
「それは、機械の熱です。
本当の“焼きたて”なんて、誰も知らない。」
その夜、俺は宿の部屋で考えていた。
エルナがパンを半分に割り、口に含んで顔をしかめる。
「味、しないね……。」
「ああ。舌に何も残らない。」
『人工酵母だな。感情の揺らぎを避けるために、味を均一化している。
この都市は“安心の食”を極限まで追求した結果、味を失ったのだ。』
「安全で、退屈な味、か。」
俺は静かに目を閉じた。
虚無の闇の中で、泣いていた神を思い出す。
――食うとは、痛みを受け入れること。
ならばこの街は、“痛み”を忘れたのだ。
翌朝、再び工房を訪れると、リゼが窯の前に立っていた。
夜明けの光が彼女の髪を照らし、粉の粒子が舞っている。
「早いな。」
「眠れなかったんです。」
彼女は焼き台を見つめたまま言った。
「パンを焼いても、何も感じない。
でも、たまに……泣きたくなるんです。」
「泣く理由、あるのか?」
「わかりません。
でも、パンを焼いていると、誰かに呼ばれてる気がするんです。
“まだ焦げるな”って、優しい声で。」
俺は息を呑んだ。
それは――間違いなく、“記憶の共鳴”だった。
「リゼ。君のパンを一つ、焼き直させてくれ。」
「……どういうことですか?」
「その窯、まだ生きてる。
本当の火を入れれば、“味”を取り戻せるかもしれない。」
リゼは迷ったが、やがてうなずいた。
俺は薪を組み、古い手火を入れた。
風が唸り、炎が窯を包む。
まるで眠っていた巨人が、再び目を覚ますように。
「小麦を。」
「はい。」
リゼが粉を篩い、手で捏ねる。
その動きはぎこちないが、どこか優しかった。
「匂いが……します。」
彼女の声が震えた。
「これが、“焼く”ってことなんですね。」
「ああ。火と命の匂いだ。」
パンが焼き上がる。
黄金色の表面に、細かな焦げ目。
割ると、湯気が立ち上った。
リゼが手を震わせながら、小さな欠片を口に運ぶ。
そして――目を見開いた。
「……あたたかい。」
涙が頬を伝う。
その顔は、初めて“生きていた”。
「これが、“味”……なんですね。」
彼女が泣きながら笑うのを見て、
俺も、ようやく“神ではなく、人”としての涙を思い出した。
その後、街の広場で小さなパン祭りが開かれた。
リゼの焼いたパンを、皆が手に取って食べた。
誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが空を見上げていた。
その香りは、確かに“命”の匂いだった。
『……やるな、ユウタ。』
ルーファスが空を見上げながら言った。
『この街にも、ようやく心の味が戻った。』
「いや、戻したのはリゼだ。」
エルナが笑う。
「焼きたての星みたいだったね。」
「そうだな。」
俺は空を見上げた。
雲の切れ間から、まるでパンのような金色の星が輝いていた。
別れの朝。
リゼが紙袋を差し出した。
「これ、持って行ってください。」
「パンか?」
「はい。“旅立ちのパン”。
私が初めて焼いた、本当のパンです。」
受け取ると、ほんのりと温かい。
彼女が言った。
「私、これからも焼き続けます。
この星のどこかで、また誰かが“食べたい”って思えるように。」
「いい言葉だ。」
俺は笑い、袋を抱えた。
「その時は、また食べに来るよ。」
風が吹き、雲が流れる。
船が浮上し、都市が遠ざかる。
エルナがパンをひとかけら口に入れて微笑んだ。
「ほんの少し、甘いね。」
「それが、希望の味だ。」
ルーファスが翼を広げ、空へ舞い上がる。
俺は星の厨房へと向かう新たな旅路を見つめた。
第三部・第3章「灰のレストラン ― 味を忘れた神父 ―」へ続く
次の舞台は、廃墟となった地上の教会跡。
そこでは、かつてユウタの料理を“神の奇跡”として信仰した者が、
今や“味を罪”と断じ、人々を飢えさせていた――。
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