エピローグ 雪姫と青空
第14話 雪姫と青空
北宿雪姫と出会って、もう一年が経ったある日のこと。
僕らは学年が上がって、クラス替えを余儀なくされた――とはいえ、幸いにも雪姫とはクラスが一緒だ。樹とはバラバラになってしまったが、あの忌々しいクラスメイトともただの『同級生』になったから、よしとしよう。
始業式が終わって、荷物の片付けをする。後方のほうでは、雪姫が他のクラスメイトに話しかけられていた。
拒絶的だった彼女は丸くなり、僕以外とも多少なりとも交流を図る気ができたようだ。何か困ったことがあったらフォローしようと思っていたら、なんのことはない。彼女のほうが僕の何倍も上手にコミュニケーションを行っていた。
本来、感情表現が豊かなタイプではある。ぎこちなく笑うその姿も、きっとすぐに自然なものになるだろう確信があった。
一方の僕は…まあ、たいして変わらない。ちょっと遠巻きにされることが増えた気もするが、話しかけてくれる人はいるから、地道に信頼関係を築くだけだ。
一緒に帰ることが当たり前になっている雪姫の準備完了を待っていると、教室の入口のほうから誰かが僕の名前を呼んだ。
「晶!こっちこっち」
小さな手で僕を呼ぶのは、神田樹だった。
椅子から立ち上がり、すぐに彼女の元へと移動すれば、樹ははにかみながら、「よかったね」と色々省いて言った。
「なにが?」
「なにがって、あの子と一緒のクラスになったことだよぅ」
「あぁ…」
まあ、確かに嬉しいことではあるが…。
「え、なに。その、『あぁ…』って。嬉しくないの?」
「嬉しいさ。でも、違うクラスになったって、そう大きな問題じゃない」
「へぇ、心はつながってるから、とか?」
呆れたような微笑と共に樹が言った。僕は薄ら寒い表現であることに苦言を呈しながらも、あながち間違ってはいないことを口にした。
「あっそ…ごちそうさま」
じっとりとした目線を送ってくる樹に、僕は無神経だっただろうかと頭を悩ませたが、妙な遠慮は僕らの間にはいらない、と苦笑を浮かべた。
「まあ僕としては、後は樹と同じクラスだったなら、文句はなかったんだけどな」
「え?」
「僕を理解してくれる友人として、樹以上の人間はいない」
「えー?ふふ、えへへ、そう?」
愛らしいはにかみ顔だ。照れているのだろう。僕の言葉に妙な意味合いがないことを理解したうえでの素直な反応に、やはり、彼女の年齢の割に成熟された精神を感じさせられる。
そのときだった。
ガツッ、と僕の腰辺りに硬いものがぶつけられた。
「いっ」と悲鳴らしからぬ声を漏らせば、背後には明らかに不機嫌そうな顔をした雪姫が立っていた。
どうやら、手にした学生鞄を僕の背後からぶつけてきたらしい。なんという暴力性だろうか。
「何をするんだ、雪姫。危ないじゃないか」
「夕凪が油売ってるからでしょ」
雪姫は、顔をしかめて文句を垂れる僕を見向きもせずにそう言うと、一度だけ樹の顔を見てから教室の外に出た。
その一瞬で彼女らの間にどんなやり取りが行われたのかは分からない。ただ、樹のほうは悪びれた様子もなく、「ごめんね」と苦笑して謝罪のポーズを取った。
ふん、と鼻を鳴らした雪姫に続いて僕も外に出る。
「すまない、樹。僕はもう行くよ」
「うん。また明日」
軽く手を振る樹に手を挙げて挨拶を済ますと、僕は先を行く雪姫の後を追った。
「おい、どこに行く」
てっきり、帰路につくと思っていた僕だったが、雪姫が足を運んだのは下ではなく上――つまり、屋上だった。
人気のない踊り場に、ぽつんと取り残された扉が一つ。開かれることのない扉に、存在する意味はあったのだろうか。
「懐かしいな」と独り言を漏らしながら、屋上の扉をくぐる。
外には青天井が広がっていた。
砂や塵が残るコンクリートの床。
転落防止のためにそびえ立つフェンス。
よく分からない大きなタンク。その向こうに見えるのは、青々とした山並み。
そして、その中心には花のように可憐な少女。…まあ、中身は獰猛な肉食獣なのだが。
とにかく、僕は扉の先に広がっていたその光景に息を飲み、足を止めていた。まるで絵画のようだとも、漫画やアニメのワンシーンだとも思った。
それくらい、北宿雪姫は浮世離れしていて、腹が立つくらいに、青い空と彼女の後ろ姿は一体のものとなって溶け合っていた。
くるり、と雪姫が振り向く。
春風が髪を揺らすのを片手で抑え、赤い顔でこちらを見つめる少女の姿に、僕は呼ばれもしないのに『行かなくては』と勝手に考えた。
足を、一歩、二歩と進める。ひとりでに閉まる屋上の扉が僕を見送っていた。
二人は、手を伸ばせば触れられる距離まで近づいていた。
交差する視線。
鼓動は自然と高鳴った。
いつか訪れるだろうと思っていた瞬間が、今、このときにやって来たのだと直感したからだろう。
「晶」と雪姫の桜色の唇が音を紡いだ。とても繊細で、綺麗な響きだった。
「なんだ、雪姫」
あくまで普段通りに返そうとした。でも、声は妙に低くなって、平静ではないことは明らかだった。
僕が雪姫と仲直りしたあの日、冷静さを取り戻した彼女は、怒っているような顔で僕にこう言った。
――『今の無し』と。
無しになんてできるわけがないだろう、と食い下がれば、彼女は有無を言わせぬ勢いで、『無しって言ったら無しなのよ!』と怒鳴った。
そして、彼女は残念がる僕に小さな、蚊の鳴くような声で続けた。
――『今度、ちゃんと言うから…それまで待って』
待ちに待った甲斐があった。落ち着かない日々も、今日という日を彩る極上のスパイスになったというもの。
雪姫は、らしくもなくもじもじと体を動かした。
いじらしい様に僕の心音は高鳴る。
青い春が、陽光の姿を得て僕たちを照らす。
「よ、よ、よく聞きなさいよ」
「ああ」
僕は、大事なものを失わないままで、大事なものを得ることができた。
(きっと、君のおかげだ)
僕は、胸の中の『彼』に――憧れ続けたダークヒーローに語りかける。
(僕には、樹という友がいて、そして、君という『勇気』の塊があった)
目の前で、大事な人が頬を真っ赤に染め、両手を胸の前にボクサーみたいに構えていた。
きっと、彼女は今、勇気を振り絞っている。
(僕はもう、僕を失わない。ありがとう、ヒーロー)
ふん、と頭の中で彼が笑った。
…そんな気がした。
「わ、私、晶のことが――」
ダークヒーローは卒業します。 null @null1324
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