第13話 ダークヒーローよ、もう一度.5
春の川べりは、とても暖かだった。日差しが直接当たるところにじっとしていると、制服の黒が熱を吸収してしまい、汗をかいてしまうほどだ。
橋の下に向かう道中、雪姫はずっと僕の名前を呼んでいたが、僕が、「落ち着ける場所に移動するまで、少し黙っていろ」と振り返りもせずに言った後、本当に静かになって歩き続けていた。
あの夏の日、彼女と喧嘩別れした橋の下にたどり着く。そこでようやく手を離した僕は、大人しくついて来てくれた雪姫のほうを見向きもしないで、大きく伸びをしてみせた。
心に重くのしかかっていたものの半分以上を、ようやく振り落とすことができた実感があった。
やはり、自分を偽るというのは精神衛生上、まるでよくない。僕の場合、そうしているだけで馬鹿みたいに卑屈になるからなおのことだ。
胸いっぱいに酸素を取り込む。澄んだ空気は体と心に活力をもたらす。田舎の良いところだろう。
「あー、すっきりした!」
それが、僕の最初の言葉になった。
「今頃、あいつらの話題は僕の悪口で独占されていることだろう。愚かな奴らだ、嫌いな人間のことなど忘れてしまうほうがよほど良いのにな」
くるりと振り返って見た雪姫の顔は、ぽかんとはしていたが、緊張と興奮のために赤くなっていた。そして、僕が爽快な面持ちでそんなことを言うものだから、みるみるうちに険しい顔になった。
「ばっかじゃないのっ!」
きぃん、と水面に跳ね返った雪姫の高い声。耳を塞ぐ暇もなく、彼女は怒涛のように言葉を続けた。
「あ、あんた、助けたつもりになってるんじゃないでしょうね!?だとしたら、余計なお世話!私は、別に独りでだって――」
「知ってるよ」
僕は雪姫の言葉を遮った。そうするべきではなかったかもしれないが、どうしても、早く自分の気持ちを伝えたかったのである。
「お前は独りでも自分を貫ける。そういう人間だ」
一瞬だけ呆気に取られた雪姫だったが、すぐにまた顔が険しくなった。
「だったら…!」
「僕がそうしたかった」
再び、彼女の言葉を遮る。気が急いている。
心とは裏腹に、足取りはゆったりとしていた。一歩一歩を噛みしめるような動きで、僕はこちらを見つめる雪姫に近づいた。
手を伸ばせば、触れられる距離まで到達した。
後は、心の距離を縮めるだけ。
「雪姫が酷いことをされているのが、気に入らなかった。それだけ、それだけなんだよ。僕の好きにしただけなんだ、雪姫」
僕の偽りのない言葉に、雪姫の顔が、かあっと赤くなる。やがて彼女は、弾かれたように顔を背けると、「なにそれ、た、頼んでない」と視線を斜め下に放った。
「…ずっと話したかった」
「わ、私は、別に…あんたみたいな奴と話すことなんて、ないわよ」
「そうか。でも、関係ない。僕は話したかった」
つっけんどんな物言いだったからか、少しだけ反抗的な顔つきで雪姫が僕を見た。身長差が十センチ以上はあるから、結構な角度だ。上目遣いが可愛らしい。
彼女の黒曜石がキラキラと光り輝いている。オニキスを超える美しさに、僕はずっとそれを覗き込んでいたい気持ちに駆られた。
まるでブラックホールだ。
去年の今頃に、この瞳を覗き込んでしまったときからずっと、僕は逃げることのできない渦のさなかにいるのだ。
でも、それで構わないと思った。
それで、彼女に近づけるなら…構わない。
「…謝るべきことがあるなら謝るから、あのときの話がしたい」
「あのときって」
「とぼけるな。去年の夏。ここで話したことだ」
むっ、と雪姫が唇を尖らせたのがハッキリ分かった。都合の悪いところに踏み込まれたからだろうか。
僕は、雪姫が誤魔化そうとしているのを雰囲気で感じ取った。だから、すかさず言葉を紡いだ。
「あのとき、何が気に入らなかったんだ?やっぱり、樹か?雪姫、お前は樹となにか確執があったのか?」
「…別に」
「はぐらかすな。僕はそれなりに勇気を出したんだ。雪姫のほうも、ちょっとくらい話してくれてもバチは当たらないだろう」
また、何かに苛立ったような表情を雪姫が浮かべた。今なら分かる。この顔は、僕に対しての苛立ちを表しているのではない。自分自身の葛藤を示しているのだ。
風が一つ吹く。運ばれてくる菜の花の匂いは、とても甘ったるい感じがした。よく見れば、河原は菜の花だらけだった。
春に染まる場所で、とうとう雪姫は口を開いた。
「…別に、あいつとの確執なんてない」
「だが、お前はあのとき、樹も、僕も、嫌いだと言った」
「弾みで言っただけよ」
「だとしたら、なんであんなにしつこく食い下がった。僕がどう返事をするかを決めつけてまで、どうして…」
じろり、と雪姫が赤い顔をして僕を睨みつける。
「…あんた、分かってて言ってんじゃないでしょうね」
「だから、何をだ?何も分からなかったから、こうして聞いているんじゃないか」
しばし、僕らは互いに見つめ合った。目つきは鋭かったが、互いに敵意はない。真意を測りかねているだけだ。
今までは、こうして分からないまますれ違っていたが、もう違う。今日こそは、互いの深淵を覗き込むまでやめるつもりはない。
一分近くそうしていただろうか。そのうち、ようやく雪姫が根負けして、「あぁもう!分かったわよ、言えばいいんでしょ、言えば!」と語気を強くした。
どうしてそこで怒るのかは分からなかったが、いよいよ彼女の真意が知れる、と僕は嬉しくなって頷いた。
口を開いて、閉じて、また開いて、閉じて…それを何度か繰り返した後、雪姫はたどたどしく告げた。
「…い、嫌だった、のよ」
「なにが?」
雪姫が勇気を振り絞っているのが分かったから、僕は意識して優しく問い返した。
「あんたが…夕凪が、神田と付き合うかもって、ことがよ」
私は、目の前のこいつが、こんなきょとん顔をしていることに無性に腹が立って、眉間に力を込めた。
「『なんで』って面してるわね、この馬鹿」
図星だったのだろう。この馬鹿は、さらに驚いた顔をしてみせた。とてもではないが、つい数十分前に、あれだけ大胆な真似をした人間と同じ奴とは思えないくらい間抜けな顔だった。
「そ、それはそうだろう。僕は樹と付き合うつもりはなかったんだぞ」
「知らないわよ、そんなの。あんた、肝心なことは言わなかったじゃない」
「いや、待て、人のせいにするな。あのとき、雪姫が僕の発言の腰を折って同じ質問を繰り返したんじゃないか」
「…うっさいわね。付き合うつもりがないなら、さっさと『付き合わない』と答えればよかったのよ」
「なんだそれ…やっぱり、お前はどこまでいってもエゴイストだなぁ」
「ふん。エゴイストで結構。意思表示が拙い、あんたが悪いのよ」
鼻を鳴らし、いっそう強く睨めば、ちょっとだけ晶はたじろいだ。しかし、それで誤魔化しきれるということはなく、彼女は仕切り直して問いを繰り出してきた。
「いや、違う。話が逸れている。戻すぞ。――僕が樹と付き合うことの何が嫌だったんだ、雪姫」
核心を突く問いに、「うっ」と言葉が漏れる。
正直に言うべきか、言わぬべきか。
大型犬にそっくりな夕凪晶は、その雰囲気に相応しく、こちらの言葉を待つことにしたようだ。どうしてそんなに人を真っ直ぐ見つめられるのか不思議な眼差しで、私を凝視してくる。
(ど、どうしよう…言う?いや、無理よ、そんなの。だって…私…)
天秤が誤魔化しに傾く。情けないとは一ミリたりとも思わなかった。
「友だち役とはいえ、ちょ、ちょっとだけ寂しかったのよ。あんたとの時間が減るって考えたら」
半分本当で、半分は誤魔化しだ。とはいえ、顔から火が出そうになるほど恥ずかしかったことに変わりはない。証拠に、額に変な汗が浮かんでいる。
ちらり、と晶の顔を確認すれば、彼女は喜びと驚愕が半分、半分になったような表情で私を見ていた。
「…そうか。寂しい、か」
そうか、そうかと繰り返す晶に思わないところがないわけではない。調子に乗りそうな感じがしたが、誤魔化すことはできたようである。
(これでいいのよ、これで…)
私が心の内の一部をさらしたことで、晶は完全に私の発言を信用しただろう。
これで、私と晶の関係は元に――いや、もっと強いものとして再構築されるはずだ。
それでいい、それで満足するべきだ…。
不意に、思考の海に身を投じていた私の頬に、柔らかな指が触れた。
ハッとして、顔を上げる。そこには、耽溺した面持ちの晶の顔があった。
「僕も、とても寂しかった。僕が失った雪姫との時間は…樹たちとの時間じゃ、埋められなくて…虚しさすら覚えた」
優しく、晶の手のひらが僕の頬をなぞった。
ぞくぞくする感覚。破裂しそうな心音。
駄目だ。
蓋が開く。
閉ざし、押し込んでいた心の蓋が…!
「やはり僕は、お前の隣がいい…」
諦観により蓋をされていた箱の中は、酷く暗い色をした液体が詰まっている。
自分ではどうしようもない、感情の澱だ。
「やめてよ…」
心の水面がざわめく。
「抑えられなく、なるじゃない…!」
ぶくぶくと、心の海底から泡が浮かび上がってくる。
「雪姫?」
私は自分の頬に当てられていた晶の手を取ると、そのまま頬ずりして続ける。
「寂しいだけじゃないに決まってるでしょ」
これは、勇気に背を押されたのではない。
いわば、感情の暴走。舵を取る者が消えただけだ。
「あんたが、他の誰かのものになるのが嫌だった」
勝手にこぼれ出る言葉に伴って、涙が浮かぶ。それを見て、晶はぎょっとした顔つきになって口をパクパクとさせていた。
「ど、ど、どうした、雪姫」
本当に…どうしてこんなに鈍いのだ。
「どうせ、私のものになんかならないって、分かってたつもりだったのに」
同性愛者、性的マイノリティ、レズビアン。
私を示す、呪いの言葉。
うんざりする同情と奇異の目。
そんなものを、社会が、私以外の多くが私に向けてくるから、私のほうからそいつらを拒絶して、自分の世界から追い出した。
ざまあみろって、叩き出した。それなのに、自分から晶に近づいた。
一目惚れだった。
凛とした面持ちも、他人とは違う自分を隠さない心も…。
あぁ…、そうだ。
あいつと同じ。
私が好きになった、あいつと同じだ。
強く、気高い心。
自分の内側でしか生きられない、生きようともしなかった私にはないもの。
「告白されて、あんたが、どっちつかずな態度を取るから…!」
なにが、僕の好きにしただけだ、よ。
あんなことされたら、勘違いしちゃうじゃない。
人の気も知らないで、この、朴念仁…。
「雪姫、なんで、泣いているんだ。なにを言っているんだ。すまない、僕には、なにが、なんだか――」
「あんたが、あんたのことが好きなのよっ…夕凪晶…」
涙を彗星のようにこぼしながら、私はとうとうそう言い切った。
さすがの晶も、ここまでハッキリと言えばこちらの真意を感じ取ったらしい。目を大きく見開いて、パチパチと間抜けに瞬きさせている。
私はというと、もはや、彼女の顔を直視できなくなっていた。
衝動性が突き動かした言葉も行動も、もう取り返しがつかないところまできていた。
顔を伏せて、むせび泣く以外に道はない。握った晶の手だけは離せずにいた。
永遠に感じる時間が流れてから、ゆっくりと、晶の両腕が、胸が、私をその内側に閉じ込めた。
「すまない…僕には、なにがなんだか、分からない」
『僕』へと帰った彼女らしい、嘘偽りのない物言いだった。拒絶されなかっただけマシだ、と晶の胸に抱かれて嗚咽を漏らす。
「でも、一つだけ…こんな僕にも、ようやく分かったことが一つある」
ぎゅっ、と晶が顔を私の頭に寄せたのが、細やかな体の動きと感触で分かった。
「この気持ちが――呼吸することすらも苦しくなるのに、それでも、幸せだと思ってしまうこの気持ちが…人を好きになるってことなんだな…」
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